カウンシルブラフス
City of Council Bluffs
ヘイマーケット(国定歴史地区)
位置
ポタワトミー郡内の位置
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯41度15分13秒 西経95度51分45秒 / 北緯41.25361度 西経95.86250度 / 41.25361; -95.86250
カウンシルブラフス(英: Council Bluffs)は、アメリカ合衆国アイオワ州の都市。ポタワタミー郡の郡庁所在地である[2]。人口6万2799人(2020年)。ミズーリ川の東岸に位置しており、対岸にはネブラスカ州のオマハがある。
カウンシルブラフスはオマハ都市圏に含まれるが、町の歴史はオマハよりも数十年古く、カンザス・ネブラスカ法の作られた1854年に事業家と土地投機家によって設立された。 カウンシルブラフス市は1804年に現在のネブラスカ州カルフーン砦近くであったルイス・クラーク探検隊とオトー族インディアンとの会談で命名された。現在のネブラスカ州ベルビューからミズーリ川を挟んで対岸のアイオワ州ミルズ郡北西部の地域が後にカウンシルブラフスと呼ばれるようになった。 現在のカウンシルブラフス市には、1838年にポタワトミー族インディアンのソーガナッシュ・バンドがシカゴ市となった場所から移住してこの地に最初に入った。ソーガナッシュの英語名はビリー・コールドウェルだったので、ポタワトミー族の主要居住地はコールドウェルのキャンプと呼ばれた。アメリカ陸軍がコールドウェルのキャンプ近くに小さな砦を建設し、これをカウンシルブラフス宿営所と名付け、約1年間軍隊が駐屯した。1838年から1839年に掛けて、伝道師ピエール=ジャン・デ・スメーがセントジョゼフ伝道所の設立に貢献し、放棄されていたカウンシルブラフス宿営所を引き継いで、ポタワトミー族への伝道を行った。デ・スメーはウィスキーの交易に伴う殺人や残酷さに驚愕して、宗教的改宗促進にはほとんど成功せず、インディアンの子供達を密かに洗礼させるに留まっていた。この期間、デ・スメーはジョセフ・ニコレットのアメリカ合衆国中西部北方の地図作りを助け支援した。この時に得た地図作りの技能を活かして、プラット川から下流ビッグスー川までのミズーリ川流域の詳細地図を初めて作成した。この地図にはカウンシルブラフス地域の詳細も含まれていた[3][4]。1839年にピエール=ジャン・デ・スメーが作ったカウンシルブラフス地域の地図。コールドウェルのキャンプと表示されたこの地域はソーガナッシュ・バンドに率いられるポタワトミー族の集落であり、カウンシルブラフスの前身であるケインズビルの町あるいはその近くだった[3]。 デ・スメーはカウンシルブラフスとなった場所について最も初期の説明を次のように書いていた。数多い小屋とテントが木の皮、バッファローの毛皮、粗い布、イグサやシバでできていて、すべて弔意や葬儀のような外観であり、あらゆる大きさと形があり、1本の柱で支えられているものがあれば6本の柱のものがあり、想像できるあらゆる様式に延ばされた覆いがあり、また大きな混沌の中でそこかしこに散らばっている姿を想像すれば、インディアンの集落を理解できる。[5] カウンシルブラフス地域に多くのインディアン部族が押し込められるに連れて、部族間の紛争が増え、違法なウィスキーの交易で増幅された。1842年にクローガン砦が建設され、ミズーリ川による酒類の行き来に秩序を与え統制した。1844年にスティーブン・タウンゼント・マーフィー隊がここでミズーリ川を渡り、1848年にはこの町がトマス・L・ケインに因んで「ケインズビル」と名付けられた。コールドウェルのキャンプにあるいはそれに隣接して建設されたケインズビルは、モルモン開拓者がユタに向けて旅立つ主要な出発点になった。コロラドの著名な自然学者エドウィン・カーターは1848年から1859年までここで暮らし、モルモンの荷車に物資を供給する乾物屋で働いた。 米墨戦争のとき、モルモン大隊がケインズビルからカリフォルニアへの行軍を始めた。
歴史