カウラ事件
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カウラ事件事件の1ヵ月前のカウラ第12戦争捕虜収容所。日本人捕虜が野球を行っている。豪州当局が宣伝のため撮影した(1944年7月1日)
日付1944年8月5日
場所オーストラリア連邦ニューサウスウェールズ州カウラ
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}南緯33度48分40.60秒 東経148度42分14.39秒 / 南緯33.8112778度 東経148.7039972度 / -33.8112778; 148.7039972座標: 南緯33度48分40.60秒 東経148度42分14.39秒 / 南緯33.8112778度 東経148.7039972度 / -33.8112778; 148.7039972
結果~545人脱走
死者235

カウラ事件(カウラじけん)(Cowra breakout)は、第二次世界大戦時の1944年8月5日に、オーストラリア連邦ニューサウスウェールズ州カウラで起こった日本軍捕虜脱走事件。

捕虜収容所の脱走事件としては、史上最多の人数(日本人収容者数1,104名の内、545名以上)と見られる。死者数235名(オーストラリア人4名、日本人231名)、日本人負傷者数108名。[1]
キャンプ

カウラ第12戦争捕虜収容所(No.12 Prisoner of War Compound、正式名称:Cowra PW and I Group、Prisoners of War and Internees Group)はニューサウスウェールズ州州都シドニーから西250kmに位置する町、カウラの中心部から北東へ3.2kmの郊外地域に位置した。第12捕虜収容所は、1947年イタリア人・日本人本国送還まで運営された。

収容所の敷地は12角形(直径約600m)をとっており、90度角で4ブロックに分かれていた。

Aブロック(北西):イタリア人

Bブロック(北東):日本人下士官兵、軍属(北部域にオーストラリア軍の敷地があった)

Cブロック(南東):イタリア人

Dブロック(南西):日本人将校、台湾人朝鮮人

収容捕虜

収容捕虜:枢軸国捕虜(イタリア人、日本軍に従事していた日本人と朝鮮人)・被拘束市民オランダ領東インド政府により拘束されていたインドネシア人)約4,000名が収容されていた。1944年8月時点、オーストラリア国内の捕虜数は、2,223名の日本人捕虜(544名の海運業者を含む)、イタリア人捕虜(北アフリカ戦線より)14,720名、ドイツ人1,585名(海軍、海運業者)この内、1,104名の日本人がカウラ収容所にいた[2]

日本軍捕虜は1943年1月から入れられた。最初に入ったのはヘイ収容所から移送された豪州捕虜第1号の豊島一、次に捕虜となった高原希国など6名で、その後もしばらくはポートモレスビー作戦ラビの戦いで捕虜となった海軍航空兵が中心であったが、間もなくビスマルク海海戦ブナの戦いなど、ニューギニア方面での戦闘で捕虜になった陸軍が大半を占めるようになる。

捕虜たちは、トマトブドウ栽培の為の伐採といった、農業を行っていた。また警備は緩く、オーストラリア軍は負傷者・栄養失調者などを含む捕虜に、手厚い看護・介護を施した。日本人は人気の高い野球、相撲麻雀などのリクリエーション活動が自由に許され、野球のバックネットを運動場に建てる写真が残されている[3]

インドネシア人捕虜については当時、オランダ領東インド政府下にあったインドネシアでは、愛国主義者たちはイリアンジャヤ(オランダ・ニューギニア)の収容所に1927年以来、捕囚されていた。しかし日本軍の占領行動により、オランダ政府は彼らが日本軍へ参軍するのを危惧して、オーストラリア政府へ収容を依頼した。オーストラリア政府は、オーストラリア憲法に違反するために解放。彼らにとってより適した気候のクイーンズランド州で農業を自由に行う。終戦後、インドネシアへ帰国した。
警備

1943年2月ニュージーランドのフェザーストン捕虜収容所(日本人の捕虜収容所)で日本人捕虜が暴動を起こした(フェザーストン事件)ため、カウラ収容所も警備の強化が行われる。この際に、年配の退役軍人や、前線勤務には健康状態が適合しないと評された若者などで構成される、第22守備大隊(22nd Garrison Battalion)を整備。周囲の監視、作業班の監督を任務とした。この市民兵第22守備隊には、ヴィッカース機関銃ブレンガン(ともにイギリスイギリス連邦軍により使用されていた自動火器)が配備された。
日本人捕虜の状態

運営は捕虜側による自治が認められており、「団長」(キャンプリーダー)を中心に補佐する数人が「事務所」(オフィス)に詰めて豪州側との連絡に当たり、事件直前にはその下に40名の班長がいた。その自治は最古参の豊島を中心に前田、永友、伊藤、柿本ら下記の海軍航空兵組が取り巻いていたが、比重が高まった陸軍より牢名主的であるとの批判が高まった[4]。一方、彼ら陸軍下士官兵は飢餓や病気だったところを入院生活を経てカウラに来た者が多く、豊島ら海軍組から「ハングリー・ボーイ」と蔑まれていた[4]


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