カイシャン
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カイシャン
.mw-parser-output .font-mong{font-family:"Menk Hawang Tig","Menk Qagan Tig","Menk Garqag Tig","Menk Har_a Tig","Menk Scnin Tig","Oyun Gurban Ulus Tig","Oyun Qagan Tig","Oyun Garqag Tig","Oyun Har_a Tig","Oyun Scnin Tig","Oyun Agula Tig","Mongolian BT","Mongolian Baiti","Mongolian Universal White","Noto Sans Mongolian","Mongol Usug","Mongolian White","MongolianScript","Code2000","Menksoft Qagan"}.mw-parser-output .font-mong-mnc,.mw-parser-output .font-mong:lang(mnc-Mong),.mw-parser-output .font-mong:lang(dta-Mong),.mw-parser-output .font-mong:lang(sjo-Mong){font-family:"Abkai Xanyan","Abkai Xanyan LA","Abkai Xanyan VT","Abkai Xanyan XX","Abkai Xanyan SC","Abkai Buleku","Daicing White","Mongolian BT","Mongolian Baiti","Mongolian Universal White","Noto Sans Mongolian"}???????
モンゴル帝国第7代皇帝(カアン
カイシャン肖像画(国立故宮博物院所蔵)
在位大徳11年5月21日 - 至大4年1月8日
1307年6月21日 - 1311年1月27日
戴冠式大徳11年12月4日
(1307年12月29日
別号????? ????? Kulug Qa'an[注釈 1]
曲律皇帝
クルク・カアン(中期音)
クルク・ハーン(近現代音)

出生至元18年7月19日
1281年8月4日

死去至大4年1月8日
1311年1月27日
大都
埋葬起輦谷/クレルグ山モンゴル高原
配偶者ジンゲ
スゲシリ
子女コシラトク・テムル
家名クビライ家
父親ダルマバラ
母親ダギ
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武宗 奇渥温海山

第3代皇帝
王朝元
都城大都
諡号仁恵宣孝皇帝
廟号武宗
陵墓起輦谷
年号至大 : 1308年 - 1311年

カイシャン(モンゴル語:???????、Qay?an[注釈 2]漢字:海山、1281年8月4日 - 1311年1月27日[1])は、モンゴル帝国の第7代カアンとしては第3代皇帝)。『集史』および『ヴァッサーフ史』『選史』などのペルシア語資料の表記では、ハイシャン(??????? Kh??sh?nk, ????? Khaysh?n)など。
生涯

成宗テムルの早世した兄のダルマバラの長男として生まれる。有力部族コンギラト出身のダギを母とすることから、嫡子のデイシュに先立たれたテムルの有力な後継者候補であったが、大徳3年(1299年)にモンゴル高原に派遣され、キプチャク親衛軍を中核とする元の高原駐留軍の指揮を委ねられた。大徳5年(1301年)には中央アジアの諸王を動員して総力で高原に侵攻してきたカイドゥの軍との戦いに参加し、テケリクの戦いでカイドゥを敗走させた。これらの戦功により大徳8年(1304年)には懐寧王に封ぜられたカイシャンは、大徳10年(1306年)にはアルタイ山脈方面まで侵攻してメリク・テムルを降すなど大きな戦果をあげた(イルティシュ河の戦い)。

大徳11年(1307年)、カアンのテムルが没すると、東に戻ってカラコルムに入り、形勢を窺った。時にバヤウト部族出身のテムルの皇后のブルガンは、テムルの有力な後継者候補であるカイシャンと弟のアユルバルワダをあらかじめ首都の大都から遠ざけたうえで、兄弟の母のダギの実家であるコンギラト部の影響を排するため、コンギラトの血を引かないテムルの従兄弟のアナンダを皇帝に擁立しようとした。これに対しコンギラト派の重臣は密かにアユルバルワダを大都に迎え入れるとクーデターを起こし、ブルガンとアナンダを捕らえた。これを知ったカイシャンは自らの指揮する大軍を率いてもうひとつの首都の上都に赴き、弟のアユルバルワダに迎えいれられて譲位を受け、6月21日に上都にて第7代カアンに即位した。

カイシャンは即位において内紛を経験した経緯から、弟のアユルバルワダを皇太子として立て、母のダギを皇太后に立てたのを始め、帝室の諸王やモンゴル貴族たちに賞与を乱発して王族から絶大な人気を得た(亡父のダルマバラにも昭聖衍孝皇帝と追諡し、廟号を順宗としている)。12月29日に翌大徳12年を改元して至大元年とするように詔し、至大元年(1308年)7月、カイシャンは即位して政権の基礎をおおよそ固め終わると、西方の有力モンゴル諸王家の3人当主たちに、王族と有力部将からなる大規模な使節団を派遣させた。すなわち、チャガタイ・ウルス当主でドゥアの長男のコンチェク、ジョチ・ウルスの当主トクタ、そしてイルハン朝の当主オルジェイトゥのもとへである。


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