カイザー=フレーザー
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1949年式カイザー・バージニアン

カイザー=フレイザー・コーポレーション(Kaiser-Frazer Corporation)は、社名を変えながら、1945年から1970年まで自動車を製造した米国自動車会社ミシガン州ウィロウラン(英語版)に1953年まで、その後はオハイオ州トレドに本社を置いた。
概要ヘンリー・J・カイザー

第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけてカイザー・インダストリーズ(Kaiser Industries)を始めとする企業群を率いリバティー船の建造で「アメリカ近代造船の父」の名をほしいままにしていたヘンリー・J・カイザー (Henry J. Kaiser) と、かつてクライスラーに籍を置き自動車会社グラハム=ペイジ・コーポレーションの社長を務めていたジョゼフ・W・フレーザー (Joseph W. Frazer) が手を組んで1945年にカイザー=フレーザー・コーポレーションとして設立した。

第二次世界大戦中に造船業界で成功を収めたカイザーが、終戦に伴い遊休化した軍用航空機工場の民需転換を図ると共に、戦後の好況で需要が見込める自動車製造業への本格進出を目指した一方で、自動車製造のノウハウを持っていたフレーザーも業界での再起を目指し資金面の豊富なスポンサーを必要としたことで両者の利害が一致。新会社はカイザー社の出資を仰ぐと共に、グラハム=ペイジ社の資産も包含した。既に、いわゆる「ビッグスリー」に牛耳られるようになっていたアメリカ合衆国の自動車業界において、独立した国内資本による大規模な量産自動車メーカーを新たに発足させた、ほぼ最後の例と言えるが、結果的には挫折することになった。

創業者の名前を冠したカイザー (Kaiser) およびフレーザー (Frazer) という2車の生産から始まった。また、カイザー=フレーザーでは、ヘンリー・カイザーの名前に由来する小型車ヘンリーJも製造した。ヘンリーJはシアーズ・ローバックオールステートのブランド名でカタログ販売された。しかし1950年代中期に至るまでの乗用車生産はほとんど不振に終わった。

1952年に「カイザー・モーターズ」に社名変更。1953年、ウィリス=オーバーランドを買収し、ウィリス・モーターズ・インコーポレーテッドと名称を変更し、傘下企業とする。1955年、乗用車事業から撤退。1963年、会社名をカイザー=ジープ・コーポレーション (Kaiser-Jeep) に変更。1970年、カイザー・インダストリーズはカイザー=ジープをアメリカン・モーターズ・コーポレーション (AMC) に売却し、自動車事業から完全撤退する。
カイザー=フレーザー・コーポレーション1948年式カイザー。1946年時点では先進的だったが、フラットな側面にはサイドモールディングもなく平板さは免れなかった

1945年7月25日に設立され、1946年ニューヨーク市のウォルドルフ アストリア ホテルでカイザー (Kaiser) とフレーザー (Frazer) という創立者の名を冠したプロトタイプ2車を公開した。プロトタイプのカイザーは先進的な前輪駆動(FF)の設計を取り入れたと発表され、一方フレーザーは高級仕様の従来型後輪駆動 (FR) となっていた。スタイリングはハワード・ダーリン (Howard Darrin) による、先進的なフルワイズボディーであった。

しかし、開発期間および製造に要するコストの問題から、前輪駆動方式は生産モデルには採用されなかった。新し物好きのヘンリー・カイザーは別として、フレーザーら多くの人々は、戦前、「コード」の前輪駆動車に駆動系のトラブルが多発していた歴史を知っており、これを支持していなかったこともある。またモノコック構造やトーションバーサスペンションなどを導入した前輪駆動試作車も、操縦が重くシミ―が発生し、コスト高ということで生産断念せざるを得なかった[1]。結局、1947年式として発表されたカイザー車およびフレーザー車は、ボディとエンジンが共通のバッジエンジニアリング車となった。

それでも、前後フェンダーボンネットおよびトランクと完全に一体化し、車体側面を平滑に連続させた(フラッシュサイド)幅広の新型デザインを持つカイザーとフレーザーが市場に投入された時点で、ビッグスリーはいまだに古い戦前モデルを継続生産しており、2種の兄弟車は市場から注目される存在となった。その工業デザインとしてのアプローチによるスタイリングは、イギリスのシンガーやドイツのボルクヴァルト、米国内の独立系メーカーであるハドソンナッシュの戦後型モデルにも影響を与えたとされる[2]。1950年までボディとエンジンは共有されつづけ、外装の一部と内装が異なるのみであった。

もっとも、ビッグスリーおよびその他の戦前からの主要メーカーは、戦後型のニューモデルの開発を進めており、1948年から1949年にかけて、カイザーやフレーザーと同様のフルワイズ、フラッシュサイドボディの新型モデルが一気に市場に出回ると、カイザー=フレーザーの優位性は失われた。

もとより、フラッシュサイドボディとしては初期のデザインであるダーリン・デザインのカイザー=フレーザー車は、1946年ならともかく、1950年ともなると競合各社の、より技巧を凝らした後発のデザインに比べ、平板さは否めなくなっていた。しかもエンジンは生産体制の制約から自社製ではなく、エンジンメーカーのコンチネンタル製エンジンを購入して搭載していた。これは1950年代までカイザー=フレーザー系の乗用車全てに共通しており、自社でエンジンを開発できないことは、性能向上の足かせとなり、競争力を削いだ。カイザーの旧式なコンチネンタル製サイドバルブ6気筒3.7Lエンジンでは、競合各社の中級車が搭載するV型8気筒エンジンに太刀打ちできなかったのである。

ジョゼフ・フレイザーは第二次世界大戦前のグラハム=ペイジ・コーポレーションでの経験によって、現実を直視した経営方針を採ろうとしたが、もとが造船業者であって自動車産業への知見の乏しいヘンリー・カイザーは、向こう見ずに困難に立ち向かおうとした。1949年に至ってカイザー=フレーザー製品の販売が落ち込んだにもかかわらず、カイザーはより多くの生産を指示し、その結果、1950年半ばには在庫過剰に陥った。


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