Ole Worm
生誕1588年5月13日
デンマーク オーフス
死没1654年8月31日(1654-08-31)(66歳)
デンマーク コペンハーゲン
別名オラウス・ウォルミウス (Olaus Wormius)
職業医師、博物学者、好古家
配偶者ドロテア・フィンケ
家族孫 - クリステン・ヴォーム
オーレ・ヴォーム[1] (Ole Worm, 1588年5月13日 ? 1654年8月31日) は、デンマークの医師、博物学者、好古家。コペンハーゲン大学教授、クリスチャン4世の侍医を務めた。驚異の部屋、ルーン文字学の開拓、『スノッリのエッダ』のヴォーム写本、ヒトの頭蓋骨のヴォーム骨(英語版)などで知られる。ラテン語名はオラウス・ウォルミウス (Olaus Wormius) [2]。
日本語では表記ゆれが激しく、「オーレ」は「オレ」[3]「オール」[4]、「ヴォーム」は「ウォーム」[5]「ヴォルム」[6]「ウォルム」[3]「ワーム」[7]とも表記される。
人物ヴォームと妻のドロテア
デンマークの主要都市オーフスの富裕家庭に生まれた。父・祖父ともにオーフスの市長で[8]、祖父はオランダのアーネムからオーフスに逃れて来たルター派だった[9]。
妻のドロテアは、コペンハーゲン大学教授で数学者のトーマス・フィンケの娘だった(フィンケは三角関数の「タンジェント」や「セカント」の命名者として知られる)。ヴォームはフィンケを通じて、近世のコペンハーゲン大学の中枢を担ったカスパー・バルトリンらバルトリン家とコネクションを持った[10]。
ヴォームはポリマス的な人物であり、複数の大学で複数の分野を修めた学生(perpetual student)だった。オーフスのラテン語学校を出た後、1605年にドイツのマールブルク大学で神学を学び[9]、1611年、スイスのバーゼル大学で医学博士を得て、1617年、コペンハーゲン大学でM.A.を得た。以後コペンハーゲン大学でギリシア語・ラテン語・自然学・医学を講義した。1621年にはコペンハーゲン大学植物園の管理者になり、薬草や外国産植物の栽培を行った[11]。1624年にはコペンハーゲン大学医学部教授になった[8]。また、クリスチャン4世の侍医も務めた[12]。
ヨーロッパ各地にコネクションを持ち、多くの学者と書簡のやりとりをした[8]。
晩年、コペンハーゲンの街でペストが流行すると医師として対応したが、自身も感染し、1654年に没した[13]。
業績
医学・博物学(英語版)」の名前の由来になった[14]。
当時のデンマーク医学界は、先王フレゼリク2世の侍医ペトルス・セウェリヌス(英語版)らが導入したパラケルスス主義や、南ドイツから流入した薔薇十字団の影響が濃く、ウォームも両者の影響下にあった[15]。しかし次第に、ルター派の立場から両者を拒絶するようになった[15]。