オールバニ公爵
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初代オールバニ公爵レオポルド、1868年撮影。

オールバニ公爵(オールバニこうしゃく、英語: Duke of Albany)は、スコットランド王国連合王国の王族の称号。スコットランド貴族として5度、連合王国貴族として1度創設された。グレートブリテン王国の時期にはヨーク公爵と合同した「ヨーク=オールバニ公爵」という爵位が創設されることもあった。
歴史ダーンリー卿および初代オールバニ公爵ヘンリー・ステュアート、1564年頃。

1398年4月28日[1]、スコットランド王ロバート3世(c.1337/40-1406)は弟にあたるファイフ伯爵ロバート・ステュアート(c.1340-1420)をオールバニ公爵に叙した[2]。初代伯爵ロバートの死後は息子マードック・ステュアート(英語版)が継承したが、1425年に処刑され、爵位も剥奪された[1]

スコットランド王ジェームズ2世(1430-1460)の次男アレグザンダー・ステュアート(英語版)(c.1454-1485)は1458年までにオールバニ公爵に叙されたが、兄ジェームズ3世(1451/52-1488)の治世に2人が争いになり、1479年にエディンバラ城に投獄された[2]。アレグザンダーは脱獄して、パリでフランス王ルイ11世に助けを求めて失敗した後、イングランド王エドワード4世に援軍の代償として臣従を承諾し、グロスター公爵リチャード(後のイングランド王リチャード3世)の援助を借りてエディンバラに向けて進軍した[2]。このときは妥協がなされ、アレグザンダーの官職と領地を回復する代償としてアレグザンダーがジェームズ3世に臣従することとなったが、1483年2月にはアレグザンダーとエドワード4世の交渉が再開され、2人は改めて条約を締結した[2]。これによりアレグザンダーとジェームズ3世の和解は振り出しに戻り、7月にはイングランド滞在中のアレグザンダーが本国で反逆罪により死刑を宣告された[2]。アレグザンダーはフランスに逃れ、1485年に死去した[2]。アレグザンダーの息子ジョン・ステュアート(英語版)(1481/84-1536)はフランスで育てられたが、1515年にスコットランド議会(英語版)の要請を受けて、イングランド王ヘンリー8世の妨害をはねのけて帰国、7月に摂政に任命され[2]爵位も回復した。以降は摂政として権勢をふるったものの、1524年にスコットランド王ジェームズ5世(1512-1542)の成人が宣告されると摂政の座を失って失脚、フランス王フランソワ1世の味方としてイタリアに渡って第三次イタリア戦争に参戦した[2]。結婚はしたものの嫡出子はおらず、1536年に死去すると爵位は廃絶した[2]

1541年、ジェームズ5世の息子アーサー(1542)は出生と同時にオールバニ公爵を儀礼称号として使用したが、洗礼から8日後に死去した[3]

1565年7月20日、スコットランド女王メアリー1世(1542-1587)の夫にあたるダーンリー卿ヘンリー・ステュアート(1545-1567)はオールバニ公爵に叙された[3]。ダーンリー卿が1567年2月に殺害されると、生後数か月の息子ジェームズ・ステュアート(1566-1625)が爵位を継承したが、そのさらに数か月後の1567年7月に母メアリー1世が退位すると、ジェームズはジェームズ6世としてスコットランド王に即位、爵位は王領に統合された[4]初代オールバニ公爵チャールズ・ステュアート、1623年頃。

ジェームズ6世の次男チャールズ・ステュアート(1600-1649)は1600年11月19日に生まれ、同年12月23日に洗礼を受けると同日にアルドマノック卿、ロス伯爵、オーモンド侯爵、オールバニ公爵に叙された[5]。1625年にジェームズ6世が死去すると、チャールズ・ステュアートはチャールズ1世としてスコットランド王に即位、爵位は王領に統合された[5]

チャールズ1世の次男にあたるヨーク公爵ジェームズ・ステュアート(1633-1701)は1660年12月31日にオールバニ公爵に叙されたが、1685年にジェームズ7世としてスコットランド王に即位すると、爵位は王領に統合された[5]


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