オールステンレス車両
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オールステンレス車両(オールステンレスしゃりょう)は、車体外板、構体、台枠をほぼ全てステンレス鋼で製造した鉄道車両1930年代以降、現在に至るまで製造が続いている。
アメリカ合衆国での歴史

ステンレス鋼は不銹鋼というその優れた特質故に注目され、研究が進められた。しかし、クロムニッケルを多量に含有し、硬度が高く曲げ加工が難しいという特性などから量産工業製品の材料としての歴史は浅く、1910年代初頭にイギリスで艦載砲の一部部材に使用されたのが実用化の端緒であった。

鉄道車両においては、その高価さ故に銹びないことが強く要求される一部小物部品への採用が1920年代頃からアメリカなどの一部で始まった。しかし上述の曲げ加工の困難さに加え、溶接時のひずみ除去が難しいという特性ゆえに、銹び代を無視して軽量化が図れるという大きなメリットがあったにもかかわらず車体などの構造部材への採用は大きく遅れた。

ステンレス鋼による鉄道車両構体の製造は、1934年アメリカバッド社が抵抗スポット溶接法を用いた車体製造技術を確立したことで、ようやく実現した。

バッド社は本来ステンレス鋼を素材とする部品メーカーであり、軽量・不銹というメリットを生かした航空機船舶用部品の製造販売を手がけていた。同社はステンレス鋼製部品市場のさらなる拡大を狙い1920年代後半に自動車市場への売り込みを図ったが、普通鋼の5倍から6倍に達するステンレス鋼の単価では、ライフサイクルが短くかつ販売価格そのものも低廉な自動車への適用は困難であることが判明した[注釈 1]

このため1931年以降、バッド社は車両のイニシャルコスト・寿命共に大きくステンレス鋼採用によるコスト増を十分吸収可能な鉄道車両のステンレス鋼製車体開発へ方針転換を図り、開発を進めた。

この技術はアメリカ国内だけはなく直ちにフランスなどへも輸出され、両国で軽量車体を備える高速客車気動車などに採用された。この時代の気動車の代表例としては、シカゴ・バーリントン・アンド・クインシー鉄道の「パイオニア・ゼファー号」(1934年バッド社製。GM製600 PS級ディーゼルエンジンを搭載)が挙げられる。アメリカン・カー・アンド・ファンドリー社(英語版)(略称:AFC)の製造したスキンステンレス車 "Palm Dome"(最後尾)。1つ前に連結されたバッド社製オールステンレス車と異なり、コルゲート(凸凹加工)が屋根に用いられていない。

また、プルマン・スタンダード社などのアメリカ国内の他の鉄道車両メーカーでもステンレス鋼製車体を備えた車両の製造が始まった。もっともバッド社による技術開発の中核をなす、構体骨組のステンレス化に必要な溶接技術はライセンス供与先以外には社外秘とされていたため、他社製車両では普通鋼製骨組にステンレス製外板を組み合わせたスキンステンレス構造が一般に用いられた。第二次世界大戦を挟んだ1930年代から1950年代までの時期には、アメリカでステンレス鋼製車体を備える鉄道車両が盛んに製造された。バッド社製RDC

バッド社によるステンレス鋼製車体をそなえる鉄道車両の代表例としては、RDC (Rail Diesel Car) と呼称される汎用通勤型気動車と、パイオニアIII (Pioneer III)と呼称される電車の2種が挙げられる。

RDCは、同社が大戦後の客車更新需要を背景に史上空前の利益を上げた1948年に開発を開始した、RDC-1 - 4の4種の規格化設計による汎用気動車群である。これは一般型客車に匹敵する寸法と居住性、デトロイト・ディーゼル社製275 PS級ディーゼルエンジン2基とアリソン社製液体式変速機により最高時速85マイルでの走行と電車並みの加速性能を可能とする強力な駆動系、そしてステンレス鋼による極めて耐久性が高く保守の容易な車体構造で、1949年に試作車が完成して以降、アメリカ国内の鉄道各社のみならず世界各国にも大量に輸出される、バッド社を代表するヒット商品となった。このRDCは、日本の国鉄キハ10系気動車のコンセプトデザインだけではなく、バッド社と提携関係にあった東急車輛製造1967年に製造した台湾鉄路管理局向けDR2700形の設計にも大きな影響を与えた。

これに対しパイオニアIIIは単一曲率の屋根板を備える特徴的な構造のステンレス鋼製車体だけではなく、特徴的なパイオニアIII 1自由度系台車の開発など、システム全般について革新的な設計が行われたことが知られている。パイオニアIIIは、1958年に完成しペンシルバニア鉄道へ納入された最初の量産車以降、フィラデルフィア・セプタ向け通勤電車など、当時アメリカに残存していたインターアーバンや地下鉄などに供給され、またこの設計は以後の客車にも応用された。

さらにバッド社によるステンレス鋼製車体設計製造技術の集大成とも言うべきこのパイオニアIIIの設計は、台車設計も含めて当時同社と提携を結んだばかり[注釈 2]の日本の東急車輛製造にほぼそのままライセンス供与の形で製造ノウハウを含めて提供された。この技術供与は、技術ライセンス契約に忠実に従って製造された東急7000系電車以降、日本でステンレス鋼製車体を備える鉄道車両が大量に製造されるようになるきっかけとなったという点で技術発達史上に大きな足跡を残した。

もっともパイオニアIIIの開発以降、アメリカではモータリゼーション航空輸送の進展に伴う鉄道産業そのものの急速な斜陽化によって、国内鉄道車両製造業は壊滅状態にまで追い込まれた。このため大ヒット作であるRDCは1962年で製造打ち切りとなり、1960年代中盤以降は各私鉄から承継した客車の代替用にアムトラックが1973年に492両のアムフリート I客車を発注した程度で、大口の旅客車両需要そのものが激減した。このため、バッド社によるステンレス鋼製車体設計製造技術開発の系譜は1978年完成のSPV-2000[注釈 3]を最後に途絶え、1987年まで製造されたシカゴ・L2600系電車をもって最終的にはバッド社も長く続いた鉄道車両製造事業からの撤退を強いられることとなった。
日本での歴史
ステンレス車両黎明期

日本の鉄道車両においてのステンレス鋼の使用は、1939年昭和14年)に製作された希硝酸運搬用のタム5500形でタンク部分に耐食性目的で使用されたのが最初であるが[1]、このような特殊目的以外では1953年(昭和28年)にEF10形電気機関車のうち関門海峡トンネル用のものが防錆用に外皮をステンレス鋼板に改造された[2]

電車では1958年(昭和33年)の東急5200系電車国鉄サロ153形900番台気動車では1960年(昭和35年)の茨城交通ケハ600形気動車より、骨組みや台枠は普通鋼製として外板のみをステンレス鋼製としたセミステンレス車両(スキンステンレス車両)が製作されるようになった。

東急5200系電車は東急車輛製造製で、当時量産中の東急5000系電車の車体設計を基本として一部寸法を見直し、普通鋼製の骨格はほぼそのままに、外板を加工しやすい形状に変更した上でステンレス製としたものである。

国鉄サロ153形900番台は汽車製造東京製作所製で、サロ153形の外板をほぼそのままステンレス製に置き換えたものである。

茨城交通ケハ600形は新潟鐵工所が1両のみを試作し、海浜に近い条件の茨城交通湊線に入線させたものである。

この時点ではステンレス鋼で骨組などの強度部材を加工できなかったため、オールステンレス車両は製作されなかった。また、ステンレス鋼はSUS304が用いられた。
オールステンレス車両日本初のオールステンレス車両である東急7000系。単一曲率の屋根板や直線的なアウトラインなどに米バッド社の設計の影響が色濃く残る。

1962年(昭和37年)以降、アメリカ・バッド社との技術提携により、東急車輛製造が製造した東急7000系電車・京王3000系電車南海6000系電車などで、内部骨組も含めて主要部材のほとんどがステンレス鋼で構成されるようになった。また、ステンレス鋼はSUS304に加え、SUS301を冷間圧延により調質した高抗張力材が用いられるようになった。ただし、台枠の緩衝中梁・中梁・端梁・枕梁など一部分は剛性を要求されるため、構造上・強度上の理由で現在に至るまで普通鋼あるいは耐候性高抗張力鋼で構成されている。また、多くの車両では戸袋内柱や内部構体なども構造上の理由で普通鋼製であり、東急8000系など初期の車両では側柱の下部数百 mmなど構体の一部も同様の理由で普通鋼製である。


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