オーブリー・フィッチ
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オーブリー・レイ・フィッチ
(1883-06-11) 1883年6月11日 - (1978-05-22) 1978年5月22日(94歳没)
フィッチ大将、1946年
生誕ミシガン州セント・イグナス
死没メイン州
軍歴1906 - 1947
最終階級 海軍大将
除隊後海軍士官学校長
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オーブリー・レイ・フィッチ (Aubrey Wray Fitch, 1883年6月11日 - 1978年5月22日) は、アメリカ合衆国軍人海軍大将。海軍飛行士であり、1920年代から海上と陸上を関連させた航空関連の重要な活動を指揮した。また後には海軍士官学校長を務めた。
目次

1 生い立ちと初期の経歴

2 第一次世界大戦とその後

3 飛行士として

4 第二次世界大戦

5 戦後

6 参照

7 外部リンク

生い立ちと初期の経歴

フィッチは1883年6月11日にミシガン州セント・イグナスで生まれる。1902年の夏に海軍士官学校に入学し、1906年2月12日に卒業した。2年間の海上勤務ではペンシルベニア (USS Pennsylvania, ACR-4) 、チョウンシー (USS Chauncey, DD-3) に乗艦し、その後1908年2月13日に少尉に任官、レインボー (USS Rainbow, AS-7) 、コンコード (USS Concord, PG-3) で勤務した後、ニューポートの海軍水雷ステーションにおいて水雷課程に学び、モンゴメリー (USS Montgomery, C-9) で訓練を受けた。

水雷課程を修了すると、フィッチはデラウェア (USS Delaware, BB-28) の艤装に従事し、その後アナポリスに戻って海軍士官学校の教官として着任、1911年から12年まで訓練士官のアシスタントを務め、12年から13年まで体育の教官を務めた。その後駆逐艦バルチ (USS Balch, DD-50) およびダンカン (USS Duncan, DD-46) で勤務し、続いてテリー (USS Terry, DD-25) 艦長を拝命、大西洋艦隊予備役水雷小艦隊第2部隊で活動した。

大西洋艦隊総司令部スタッフ職を務めた後、フィッチは1915年1月にヤンクトン (USS Yankton) の艦長に着任、総司令官の補佐官も務めた。
第一次世界大戦とその後

1917年春にアメリカ合衆国が第一次世界大戦に参戦すると、フィッチは間もなくヤンクトンの艦長職を離れ、5ヶ月間を総司令部スタッフ職で過ごす。その後ワイオミング (USS Wyoming, BB-32) に砲術士官として着任、終戦までグランド・フリートの第6戦艦戦隊で活動した。

休戦が成立すると、フィッチは再び海軍士官学校で勤務し、それと平行してマサチューセッツ州ヒンガムのヒンガム海軍弾薬庫別館の検査官職も務めた。また、メイン州フレンチマンズベイの海軍燃料補給地の火器検査官も務めた。1920年8月からは高速機雷敷設艦部隊を指揮し、ルース (USS Luce, DD-99) およびマハン (USS Mahan, DD-102) の艦長も歴任した。

1922年12月にマハンの艦長職を離れ、フィッチは1927年3月までブラジルリオデジャネイロで勤務した。その後ワシントンD.C.海軍省に報告を行った後、5月にネバダ (USS Nevada, BB-36) に着任、同年11月には(しばしば軽蔑的に「ビーフボート」と呼ばれた)給糧艦のアークティック (USS Arctic, AF-7) の艦長に着任した。
飛行士として

フィッチは1929年6月にフロリダ州のペンサコーラ海軍航空基地で飛行士としての訓練を受け、1930年2月4日に初飛行した。カリフォルニア州サンディエゴノースアイランド海軍航空基地で短期間勤務した後、春に水上機母艦ライト (USS Wright, AV-1) の艦長に着任、1931年7月にその任を離れ、海軍初の空母ラングレー (USS Langley, CV-1) の艦長職を務めた。


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