オーブリー・ビアズリー
Aubrey Beardsley
Frederick Hollyer 撮影 (1896)
本名オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー
Aubrey Vincent Beardsley
誕生日 (1872-08-21) 1872年8月21日
出生地 イギリス、ブライトン
死没年1898年3月16日(1898-03-16)(25歳)
死没地 フランス共和国、マントン
国籍 イギリス
運動・動向アール・ヌーヴォー、耽美主義
芸術分野イラストレーション
教育ウェストミンスター美術学校
オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー(英語: Aubrey Vincent Beardsley, [???bri ?vins?nt ?bi?d?zli], 1872年8月21日 - 1898年3月16日)は、19世紀イギリスのイラストレーター、詩人、小説家。ヴィクトリア朝の世紀末美術を代表する存在。悪魔的な鋭さを持つ白黒(モノトーン)のペン画で、耽美主義の鬼才とうたわれたが、病弱ゆえに25歳で死去した。 イングランド南部のブライトンに生まれる。父ヴィンセント・ポール・ビアズリーは金銀細工師の息子。母エレン・ピット・ビアズリーは軍医ウィリアム・ピットの娘だが、祖先に大ピットがいたという証拠はない[1]。2人姉弟の長男として生まれたオーブリーは、父方から工芸家としての器用さを受け継ぎ、母方から芸術に対する洗練された趣味を受け継いだ。稼ぎのないヴィンセントのために、母エレンは音楽教師として働き、オーブリーに文学や音楽の本格的な教育を施した。幼時から母にピアノを習ったオーブリーは、学校に上がる前からショパンを弾きこなし、音楽の天才と呼ばれた。姉メイベル・ビアズリー
生涯
1878年、ブライトン近郊ハーストピアポイントの寄宿学校ハミルトン・ロッジに入学。ここで初めて絵を描き始める。
1879年、初めて結核の兆候が現れる。1881年、病気のためにハミルトン・ロッジを退学。同年、オーブリーの健康のために、一家でロンドン南郊のエプソムに転居。
1882年、当時ビアズリー家を援助していたヘンリエッタ・ペラム夫人から初めて絵の注文を受け、ケイト・グリーナウェイの絵本からの模写で報酬を得る。まもなく、一家でロンドンに移住。トマス・マロリー『アーサー王の死』挿絵 (1894)
1884年8月、一家で再びブライトンに戻り、ブライトンのグラマースクール(初等中学校)に入学。学費は母方の大伯母が援助した。寮長アーサー・ウィリアム・キングに才能を見出されて以来、終生キングに感謝しつづけた。このころ、コングリーヴやウィチャリー、トーマス・カーライル、ジョヴァンニ・ボッカッチョ、トーマス・チャタートン、エドガー・アラン・ポーなどを愛読。
1888年、ブライトンのグラマースクールを卒業。一家でロンドンに移住し、ピムリコ地区のケンブリッジ通り32番地に居を構える。ロンドンのクラークンウェル地区測量事務所に事務員として勤務。1889年、ガーディアン火災生命保険会社の書記に転職したが、年末に喀血したため休職。
1890年、小説風エッセー「懺悔訪問簿の話」を『ティット・ピッツ』誌に発表、1ポンド10シリングの報酬を得る(ビアズリー当人は画家よりもむしろ文人として評価されることを望んでいたといわれる)。
1891年7月12日、画家エドワード・バーン=ジョーンズの画室を姉メイベルと共に訪問し、作品を見せたところ、才能を絶賛され、勤めを辞して画家になることを勧められる[2]。