オーバーザルツベルク
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座標: .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯47度37分52秒 東経13度03分21秒 / 北緯47.63111度 東経13.05583度 / 47.63111; 13.05583.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left} ドイツ内の位置

オーバーザルツベルク(ドイツ語: Obersalzberg)とは、ベルヒテスガーデン・アルプス山脈(ドイツ語: Berchtesgadener Alpen)の一地域。ドイツバイエルン州の州都ミュンヘンの南東120kmの位置の村ベルヒテスガーデンから見て東側の山腹にある。オーストリア国境に近い。
概要

岩塩の産出地であり、ベルヒテスガーデン塩鉱山(de)として知られていた。ザルツベルクの名称は「塩の山」という意味である。

19世紀ごろから観光地・避暑地として有名になり、作家リヒャルト・フォス(de:Richard Vos)の小説『Zwei Menschen』(2人)の舞台ともなった。訪れた観光客が主に宿泊するのはPension MoritzやZum Turkenといったホテルであった。また、資産家の別荘も建ち並び、冷凍技術を実用化したカール・フォン・リンデはこの地域に10年間居住していた。オーバーザルツベルクの風景
ナチス・ドイツ時代
ヒトラーとオーバーザルツベルクヒトラーとゲーリング。1933年

アドルフ・ヒトラー国家社会主義ドイツ労働者党幹部のディートリヒ・エッカートを通じてオーバーザルツベルクを訪れた。ヒトラーはオーバーザルツベルクを気に入り、1928年にはブクステフーデ(de)の皮革製品メーカーの未亡人から山荘を月100ライヒスマルクで賃貸契約を結んだ。山荘には異母姉アンゲラ・ヒトラーとその子アンゲラ・ラウバル、フリードル・ラウバルらを住まわせた。1929年5月29日、ヒトラーは著書『我が闘争』の印税で山荘を購入し、ベルクホーフと改名した。

山荘周辺にはヒトラーを一目見ようと多くの観光客が訪れた[1]。彼らはベルヒテスガーデンの人々に『巡礼者』と茶化して呼ばれた。
ナチス党のオーバーザルツベルクベルクホーフで設計図を見るヒトラーとシュペーア

ヒトラーの政権獲得後、一帯はナチス党によって買収されることになった。土地と別荘の買収にあたったのはマルティン・ボルマンであり、ボルマンは市場価格での買収を所有者に持ちかけた。買収を拒否した所有者もいたが、さまざまな圧力の前に結局売却せざるを得なくなった。

買収完了後、既存の別荘はすべて破壊され、建築家アロイス・デガノ(ドイツ語版)(Alois Degano)が中心となってオーバーザルツベルクとベルクホーフの大改造が行われた。ベルクホーフの設計にはヒトラー自身も関与している。複数の新たな別荘と親衛隊の兵舎、地下壕が建設された。Pension Moritzの一部は警備員の宿舎とされ、残りは賓客用の宿舎となった。ホテルZum Turkenには親衛隊の司令部が置かれた。別荘はヘルマン・ゲーリングアルベルト・シュペーアといったナチス・ドイツの高官たちが購入した。

1936年以降は、立入禁止区域が設けられ別荘の見学に制限が課せられた[1]

1937年、近郊のビショフスヴィーゼン(ドイツ語版)(Bischofswiesen)のBischofswiesen-Stanggasに首相官邸の別棟(ドイツ語版、英語版)が建設され、ヒトラーのオーバーザルツベルク滞在中には首相官邸の職員がここに移り、業務を行った。
政治の舞台

ヒトラーは一年のうち数ヶ月をオーバーザルツベルクで過ごし、外交の舞台ともした。ドイツによるオーストリア併合(アンシュルス)の際にクルト・シュシュニックオーストリア首相を恫喝したことや、ドイツによるハンガリー王国占領(マルガレーテI作戦)の際に摂政ホルティ・ミクローシュを軟禁したことなどが知られる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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