オーネット・コールマン
Ornette Coleman
基本情報
生誕 (1930-03-09) 1930年3月9日
出身地 アメリカ合衆国テキサス州フォートワース
死没 (2015-06-11) 2015年6月11日(85歳没)
ジャンルジャズ、フリー・ジャズ、アヴァンギャルド・ジャズ
職業サックス奏者、作曲家
担当楽器サクソフォーン、トランペット、ヴァイオリン
活動期間1958年 - 2015年
レーベルコンテンポラリー・レコード、アトランティック・レコード、ESPディスク・レコード、ブルーノート、インパルス!レコード、フライング・ダッチマン・レコード、コロムビア・レコード、ヴァーヴ・レコード
共同作業者プライム・タイム
オーネット・コールマン(Ornette Coleman、1930年3月9日[1] - 2015年6月11日)は、アメリカ合衆国テキサス州フォートワース生まれのジャズ・サックス奏者。アルトサックスの他、トランペットやヴァイオリンもこなす。フリージャズの先駆者である[2]。 1930年、テキサス州フォートワースで生まれた[3]。14歳でアルト・サックスを始め、15歳の頃にテナー・サックスに転向し、16歳で高校を中退してからは、家計を助けるためにR&Bやビバップを演奏していた[3]。しかし、バトン・ルージュでの公演で暴漢に愛用のテナーを壊されてからは、グラフトン社の白いアルトに持ち替えた[3]。1956年には、後にコールマンのバンドのドラマーとなる息子デナード・コールマン
来歴
1958年、ロサンゼルスのコンテンポラリー・レコードと契約し、ドン・チェリーらを従えて初のリーダー・アルバム『サムシング・エルス!』を発表。同レーベルではアルバム2枚の録音を残した。その後、オーネットの才能を高く評価していたジョン・ルイス(MJQ)の勧めでニューヨークに移り、1959年、アトランティック・レコード[4]に移籍。そして、チャーリー・ヘイデンやドン・チェリーらと共に『ジャズ来るべきもの』、『フリー・ジャズ』などの実験的な前衛作品を発表[5]。カントリー・ブルース・シンガーが、ジャズを演奏しているかのようとも評された。
オーネットが生み出した新しい音楽は、一大センセーションを巻き起こした。ミュージシャンの間でも、前述のジョン・ルイスが在籍するモダン・ジャズ・カルテットのメンバー達から高く評価される一方、マイルス・デイヴィスやマックス・ローチからは批判された。しかし、オーネットの先進性は、フリー・ジャズという新たな前衛ジャズの流れを生み出していった。
1960年代前半にいったん活動を停止したあと、後半から再び活発に活動を展開。ヨーロッパでのツアーを収めたライヴアルバム『ゴールデン・サークルのオーネット・コールマン』等は高い評価を得た[6]。トランペットやヴァイオリンもマスターし、自身のリーダー・アルバムで成果を披露。
1970年代後半からは『ダンシング・イン・ユア・ヘッド』[7]や『ボディ・メタ』などファンクやアフリカ音楽などの黒人のルーツを探求し、フリー・ファンクとも呼ばれるファンキーなアルバムを制作した。この頃に「ハーモロディクス理論」という独自の理論を考案する。当時のバンドのメンバーにはジェイムス・ブラッド・ウルマーや、ロナルド・シャノン・ジャクソンらがいた。1988年にはグレイトフル・デッドのギタリスト、ジェリー・ガルシアが3曲にゲスト参加したアルバム『ヴァージン・ビューティー』を発表[8]。ピーター・バラカンは、このアルバムを高く評価した。
1991年、同年公開の映画『裸のランチ』の音楽に参加した。2001年、高松宮殿下記念世界文化賞を受賞。ジャズ・ミュージシャンでこの賞を受賞しているのは、オーネット以外ではオスカー・ピーターソンのみである。
2007年、ピューリッツァー賞、第49回グラミー賞において特別功労賞生涯業績賞(Lifetime Achievement Award)を受賞。
2015年6月11日、ニューヨークにて心停止により、死去。85歳没。 ドン・チェリー (コルネット)、ビリー・ヒギンス (ドラム)、ポール・ブレイ (ピアノ)、レッド・ミッチェル (ベース)、パーシー・ヒース (ベース)、シェリー・マン (ドラム)、エド・ブラックウェル チャールス・モフェット デューイ・レッドマン (テナー・サックス)、ボビー・ブラッドフォード ジェイムス・ブラッド・ウルマー
主な共演者
1960年代前半
1960年代後半
1970年代前半
1970年代後半