オードリー・ロード
Audre Lorde
誕生 (1934-02-18) 1934年2月18日
アメリカ合衆国ニューヨーク州、ニューヨーク市
死没 (1992-11-17) 1992年11月17日(58歳没)
アメリカ領ヴァージン諸島セント・クロイ島
教育メキシコ国立自治大学
ニューヨーク市立大学ハンター校 (BA)
コロンビア大学 (修士)
ジャンル詩
ノンフィクション
代表作The First Cities
Zami: A New Spelling of My Name
Sister Outsider
ウィキポータル 文学
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オードリー・ロード(英: Audre Lorde、1934年2月18日 - 1992年11月17日)は、アメリカ合衆国の作家、詩人、フェミニスト、ウーマニスト、司書、人権活動家である。自身のことを「ブラック、レズビアン、母、闘士、詩人」と称し、人生を通して人種、性別、階級、性的指向などをもとにした差別、抑圧と闘った[1]。
詩人としては、技巧的な感情表現で知られ、特に人生を通して経験した社会の抑圧に対する強い怒りを表現した詩を多く残した[1]。詩と散文を通して、社会問題、フェミニズム、レズビアニズム、病気と障がい、そして黒人女性のアイデンティティを探求し、インターセクショナリティの発展に大きな影響を与えたことで知られている。 ロードはバルバドス出身の父とグレナディーンのカリアク島出身の母との三女として、ニューヨーク市ハーレムで生まれ育った。ロードの母は肌の色が淡く、スペイン系の白人としてパスする[注 1]ことが出来、母方の家系はそれを誇りに思っていた[2]。それに対して、ロードの父の肌は母方の家族が好むよりも濃く、結婚が認められたのは父の魅力、野心と根気強さがあったからだという[3]:7-13。 ロードと両親の関係性は幼少期より複雑であった。大恐慌の後の不安定な経済の中、不動産業を営むロードの両親は忙しく、子育てに多くの時間を裂けなかった。幼少期に両親と過ごした時間は主に冷たく接され、感情にも距離を感じていたという。特に母は他人を信頼しない性分で、特に自分より肌の色の濃い人には疑いを持って接していた。末っ子であったロードは、母や姉よりも肌の色が濃く、そのことで厳戒なルールと「厳しい愛」のもと育てられた[3]:15?20。ロードは幼少期からの母との複雑な関係をのちに詩として発表している[注 2][1]。 ロードは幼少期より重度の視覚障害に認定されるほどの近視であった。また、幼少期は長らく言葉を発さず、4歳の時に図書館の司書が絵本を朗読してくれた事をきっかけに話す事と読む事を同時に習い始める。同時期に本に興味を持ったロードに母が書くことを教え始め、同年代の子供より早く文章を書くことができた。自分の名前を書けるようになって間も無く、本来のオードリーの綴りである「Audrey」から最後の「y」を落とした、「Audre Lorde」という名前を使うようになる。のちの自伝によると、AudreとLordeの綴りが持つ「e」で終わる対称性を気に入ったという[2]:24。母は本来の綴りを使わせようとしたが、生涯を通じてAudre Lordeという綴りを使うこととなる[2]。 学校に行くようになると、うまく周りとコミュニケーションが取れないことに気づき、詩の持つ表現の力に勇気づけられる[4]:637?39。子供の頃は詩を通して思考していたとも語っている[2]。多くの詩を暗記し、その一部を用いてコミュニケーションをとることもあり、調子を尋ねられると詩を暗唱してその時の気分を伝えたという[5]。12歳頃から自分の詩を書くようになり、この頃から学校でも他の馴染めていない生徒と友達になることができた[5]。 高校は優秀な学生のみが入学できるマンハッタンの公立高校に行き、1951年に卒業した。在学中、同校の文学誌に詩を投稿したが、不適切な表現があると却下された。その後、同詩をセブンティーン誌に投稿し、自身の詩では初めて発表されることとなる。学校での詩のワークショップなどにも馴染めず、周りには「クレージーでクィアだけど、そのうち落ち着くだろうと思われていた」と語った[4]。 1954年、メキシコ国立自治大学の学生として過ごした1年間はロードにとって重要なものとなった。この時期に、自身がレズビアンであり、詩人であることを改めて認識した[5]。アメリカに戻り、ニューヨーク市立大学ハンター校に就学。学生時代は図書館で司書として働きながら、執筆を続けた。同じ頃、グリニッジ・ヴィレッジ界隈で発展していたLGBT文化に活発に参加する。1959年、学部生として卒業後、コロンビア大学に進学し、図書館学の修士号を取得する[5]。 1968年、ロードはライター・イン・レジデンスとして、ミシシッピ州のトゥーガルー・カレッジ招聘される。メキシコで過ごした時間と同様、ニューヨークを離れたこの時期は彼女の芸術性に大きな影響を与えた。ロードが主催するワークショップには多くの若い黒人の学生が参加し、その多くが公民権の問題についてロードと話し合いたがった。学生と接する中でロードの詩は、「クレージーでクィア」なだけでなく、伝統的な技巧やディテールにも意識が向けれらるようになった。詩集『Cables to Rage』はトゥーガルー・カレッジで過ごした時間と経験が元となっている[4]。 1972年から1987年、ロードはスタテンアイランドに住み、講師として教えながら執筆活動も行った。1977年には女性によるメディアの支援活動するNPOであるWIFP
生い立ち
キャリア
1969年から1970年にかけて、ニューヨーク市立大学リーマン校の教育学部で教え、その後は1981年まで刑事司法を専門とするジョン・ジェイ・カレッジ・オブ・クリミナル・ジャスティスで英文学の教授となり、ブラック・スタディーズの学部を創設するために働きかけた[9]。その後、出身校であるハンター校に戻り、1986年まで教えた[10](p395)。
1981年、ロードは共同創立者として、性的虐待やパートナーによるDVを受けたサバイバーの女性をサポートする団体、Women's Coalition of St. Croix を立ち上げる[4]。1980年代後半には、南アフリカでアパルトヘイトなどの抑圧に影響を受けた黒人女性を支援するシスターフッド・イン・サポート・オブ・シスターズ(SISA)の立ち上げにも関わった[1]。