オーストリア福音主義教会アウクスブルク信仰告白派
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基礎データ
管轄面積:83,870 km2
指導聖職者:
監督
ミヒャエル・カロカ
加盟教会組織:LWB,
教区数:7
教会共同体数:196
教会員数:271.296人[1]
全国民における教会員比率:3,0 %(2019年現在)
公式サイト:Evangelische Kirche in Osterreich
ウィーンにある
ルター派シュタット教会

オーストリア福音主義教会アウクスブルク信仰告白派(ドイツ語: Evangelische Kirche Augsburgischen Bekenntnisses in Osterreich)は、オーストリアにおけるルター派福音主義教会である。現地では Evangelische Kirche A.B. in Osterreich という短縮された略称が一般に使われている。この教会名称にあるアウクスブルク信仰告白はルター派における重要な信仰告白文書である。その設立は神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世による1781年の宗教寛容令発布にさかのぼることができる。2019年現在、オーストリア福音主義教会アウクスブルク信仰告白派はオーストリア共和国全土に196の教会共同体を有し、271.296人の教会員がいる。
歴史
16世紀‐17世紀

神聖ローマ帝国のオーストリア地域において、マルティン・ルターによる文書が1520年代において流布していた。とりわけ、ウィーンとブレスラウにおいて盛んに流布されていた。1524年、カスパー・タウバーがオーストリアにおける最初の福音主義殉教者として処刑された。1555年アウクスブルクの和議によって、根本的な意味での宗教の自由が守られたが、しかしながら、福音主義信仰の実践は許されなかった。オーストリア貴族と領邦都市の多くの請願が出されたが、オーストリアでは反宗教改革政策が一層強められた[2]。1577年にルドルフ2世はウィーンにおける福音主義教会の礼拝、学校、さらに家庭礼拝をも禁止し、翌1578年には容認されていたウィーン郊外ヘルナルスでの福音主義教会の礼拝も禁止した[3]。1600年以降になると、組織的な焚書がおこなわれた。ルターの文書が他の地域から密輸されるようになった。ローマ・カトリック教会ミサ出席が領民に義務づけられ、福音主義の教説はオーストリアにおいて非合法化され、福音主義の信仰は地下で守られた(隠れ新教徒)。厳しい宗教弾圧がおこなわれた結果、ザルツブルク地方の福音主義信徒は故郷を追われ、プロイセン王国へ移住した[4]
18世紀-19世紀

1781年10月のヨーゼフ2世による寛容令発布によって、アウクスブルク信仰告白と第二スイス信仰告白を拠り所とする福音主義教会共同体を形成することが初めて可能になった。当時において、500人か100家族前後が福音主義信徒の下限と見なされた。しかしながら、寛容令において制約も残り、オーストリアの福音主義教会は会堂において教会塔を持つことは禁じられた。1781年から1785年の間にオーストリアで48の福音主義教会が設立された。とりわけ、シュタイアーマルク州のラムサウ・アム・ダッハシュタイン、オーバーエスターライヒ州のバート・ゴイーザーン・アム・ハルシュテッターセ、ゴーザウ、ヴェルスとウィーンに建設された福音主義教会が重要である。1785年末で107.000人超の福音主義教会信徒がツィスライタニエン地域と呼ばれるオーストリア帝冠領において登録されていた。

19世紀に入ると、オーストリアにおいて福音主義教会は多数の教会、学校、病院等を設立した。1848年以降、教区共同体教籍簿管理に関する規定が確立した。1861年4月8日、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世によって新教徒寛容令が発布された。この勅令によって福音主義教会は初めて条件付きの法的同格性を得た。教会組織は4段階構造になった[5]

19世紀後半、オーストリアの福音主義教徒周辺において、新教徒が主体となって成立したドイツ帝国にオーストリアを結びつけようとしたドイツ民族主義運動が盛んになった。「ローマからの分離運動」という枠組みで、ドイツ民族主義、およびゲオルク・フォン・シェーネラーの汎ドイツ運動等の大ドイツ主義の影響を受けた約3万人がローマ・カトリック教会から福音主義教会へ改宗した[6]
20世紀

1918年オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊し、福音主義教会は後継国家オーストリア共和国と共に歩むことになった。オーストリア福音主義教会アウクスブルク信仰告白派という名称で運営されたが、1938年アンシュルスによって、オーストリアドイツ国[7]ナチス・ドイツ)の構成部分となり、1939年から1945年はドイツ福音主義教会 (DEK)に統合されていた。オーストリアの福音主義教会は戦後の1949年に新教憲を制定した。第2次世界大戦後、オーストリアの福音主義教会は約8万人のドイツ系難民を受け入れた。1961年に福音主義教会の法的地位に関して、完全な法的自由権を得ている[8]。オーストリア福音主義教会アウクスブルク信仰告白派は第2次世界大戦後に女性牧師の任職を認めた。礼拝時における同性愛者夫婦への祝福も可能である[9][10]
信仰告白

オーストリア福音主義教会アウクスブルク信仰告白派は、ルター派の一致信条書にある信仰告白文書を教会の信仰告白であると見なしている。ルター派の一致信条書は古代教会の3つの基本信条に、ルターの大小教理問答シュマルカルデン条項アウクスブルク信仰告白とその弁証、和協信条から構成されている[11]。同時に「バルメン宣言」(ドイツ福音主義教会の現状に関する神学的宣言)を教憲前文において言及しており[11][* 1]、従って、オーストリア福音主義教会アウクスブルク信仰告白派は「バルメン宣言」を信仰告白文書と扱っている。
信徒分布

ルター派福音主義教会信徒の住民構成比が高い地域はブルゲンラント州 (とりわけ、オーバーヴァルト郡)、ケルンテン州 (10.3 %)、シュタイアーマルク州に51.005人(4,3 %)の信徒がいるが、リーツェン郡ラムサウ・アム・ダッハシュタインは住民の過半数(78,1 %)が信徒である。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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