1809年オーストリア戦役
ナポレオン戦争と対仏大同盟中
オラース・ヴェルネが描いたヴァグラムの戦いでのナポレオン
時1809年4月10日から10月14日
場所中央ヨーロッパ、イタリア、オランダ
結果
フランスの勝利、シェーンブルンの和約
半島戦争の継続
1812年ロシア戦役まで中央ヨーロッパ、東ヨーロッパで平和がもたらされた。
領土の
変化
フランス帝国によるイリュリア州の併合
バイエルン王国によるチロルとザルツブルクの併合
ワルシャワ公国への西ガリシア州の割譲
ロシア帝国のテルノーピリ併合
衝突した勢力
第五次対仏大同盟:
オーストリア帝国
王領ハンガリー
チロル[注釈 1]
イギリス
スペイン・ブルボン朝
シチリア王国
サルデーニャ王国
黒い軍勢
^ (バイエルン王国に対する反乱軍)
フランス第一帝政
ライン同盟
バイエルン王国
ザクセン王国
ヴュルテンベルク王国
ヴェストファーレン王国
イタリア王国
ポーランド軍団
ナポリ王国
スイス
ホラント王国
指揮官
フランツ2世
カール・フォン・エスターライヒ=テシェン
ヨハン・バプティスト・フォン・エスターライヒ
ブラウンシュヴァイク公
ポートランド公爵
スペンサー・パーシヴァル
ジョン・ピット
アンドレアス・ホーファー
ナポレオン・ボナパルト
マクシミリアン1世
ウジェーヌ・ド・ボアルネ
ユゼフ・ポニャトフスキ
フリードリヒ・アウグスト1世
戦力
オーストリア 340,000名[1]
イギリス 85,000名[2]275,000名[3]
被害者数
合計170,000名[4]
戦傷者 90,000名
捕虜 80,000名
合計140,000名[4][5]
戦死者 30,000名
戦傷者 90,000名
捕虜 20,000名
1809年オーストリア戦役(1809ねんおーすとりあせんえき, 1809年4月10日 - 1809年10月14日)は、オーストリア帝国がナポレオン1世のフランス帝国による覇権に挑んだ結果、生じた戦役である。主要な戦闘は中央ヨーロッパで生じ、フランス、オーストリア共に多くの損害を被った。この戦役は、主にドナウ川周辺で戦闘が行われ、最終的にフランスがヴァグラムの戦いで勝利し、フランスに有利な状態で戦争は終結した。
その後フランスはシェーンブルンの和約で過酷な条件をオーストリアに突きつけた。メッテルニヒとカール大公はハプスブルク帝国の保護を原則として外交交渉に望み、仏墺間の平和と有効を約束することを見返りに、より穏便な和約をナポレオンに締結させる事に成功した[6]。オーストリアの大半の昔からの領土はハプスブルク家の領土の一部であり続けたが、フランスはコロシュカ地方、カルニオラ、アドリア海の港を獲得し、ガリツィアはワルシャワ公国に割譲され、チロルのザルツブルクはバイエルン王国に編入された。オーストリアは全国民の1/5に当たる300万人の国民を失った。
オーストリアが戦争から離脱した事で、第五次対仏大同盟は崩壊したが、イギリス、スペイン、ポルトガルは半島戦争を継続し、フランスと戦争状態にあった。1812年ロシア戦役までの間、中央ヨーロッパと東ヨーロッパに平和がもたらされたが、ロシア遠征に敗北後の1813年に第六次対仏大同盟が結成された。目次
1 背景
1.1 第四次対仏大同盟
1.2 半島戦争