オーストリア・ロシア・トルコ戦争
露土戦争中
アゾフの降伏、1740年作。
時1735年 - 1739年9月1日
場所バルカン半島、東ヨーロッパ
結果引き分け
ニシュ条約とベオグラード条約締結
衝突した勢力
ハプスブルク帝国
セルビア王国
オスマン帝国
クリミア・ハン国
指揮官
アンナ女帝
ブルクハルト・クリストフ・フォン・ミュンニヒ
ピョートル・ラシ
カール6世
ヴィルヘルム・ラインハルト・フォン・ナイペルク マフムト1世
カプラン1世ギレイ(フランス語版)
フェトフ2世ギレイ(フランス語版)
メングリ2世ギレイ(フランス語版)
オーストリア・ロシア・トルコ戦争(オーストリア・ロシア・トルコせんそう、英語: Austro-Russian-Turkish War、1735年 - 1739年)は、18世紀にロシア帝国、オーストリア(ハプスブルク帝国)とオスマン帝国が東ヨーロッパ・バルカン半島を主戦場として衝突した戦争である。 開戦事由は1735年末にクリミア・ハン国がヘーチマン国家(ウクライナ)を襲撃したことと、クリミア・ハン国のカプラン1世ギレイ
開戦まで
戦争直前の1735年、ロシアはアフシャール朝ペルシアの支配者ナーディル・シャーとギャンジャ条約を締結し、1722年から1723年までのロシア・ペルシャ戦争で獲得した領土を返還した[1]。
経過ロシア軍の1736年戦役
1736年5月20日、ブルクハルト・クリストフ・フォン・ミュンニヒ元帥率いるドニエプル軍6万2千はクリミア領ペレコープ要塞を強襲し、6月17日にバフチサライを占領した[2]。クリミア軍はロシア軍の撃退に失敗し、1736年、1737年、1738年と次々に撤退に追い込まれ、クリミア貴族は山間部へ、フェトフ2世ギレイ(フランス語版)は海上への逃亡を余儀なくされた[3]。ロシア軍によりゴズレフ、カラスバザール(英語版)、バフチサライ宮殿(英語版)が焼き討ちに遭い、さらにアゾフの要塞が陥落すると[3]、カプラン1世ギレイとフェトフ2世ギレイは無能だとしてオスマン帝国に廃位された[3]。しかし1737年から1739年までは疫病が流行した年であり、全ての交戦国が影響を受けた[4]。ミュンニヒは戦場上では勝ったものの[3]、疫病と補給の不足により[5]ウクライナへの撤退を余儀なくされる。6月19日、ピョートル・ラシ将軍率いるドン軍2万8千はピョートル・ブレダール(Peter Bredahl)率いるドン川小艦隊(英語版)の援護の元、アゾフ要塞を奪取した[2]。1737年7月にはオチャコフを強襲して落とした。ラシの軍4万人は同月クリミアに進軍してカラスバザール(英語版)を占領したが、補給の不足でクリミアから撤退した。結局、1736年のクリミア戦役はロシアが3万人の損失(うち2千人は戦死、残りは疫病と飢饉により死亡)を蒙ってウクライナへ撤退する結果に終わった[6]。
オーストリアはロシアの緒戦での勝利を見て、1737年7月に参戦したが、1737年8月4日のバニャ・ルカの戦い(英語版)[7]、1739年7月のグロッカの戦い(英語版)で敗北し[8]、さらに1739年7月から9月にかけてのベオグラード包囲戦でベオグラードまで占領された。1737年8月、三国はネミーロフで平和交渉を開始したが不調に終わった。1738年は大規模な戦闘がなかったが、ロシア軍は疫病によりオチャコフやキンブルン半島からの撤退を余儀なくされた。
講和へ(英語版)でオスマン軍に勝利、19日にホティン(英語版)の要塞を占領、続いてヤシの要塞も占領した。しかし、オーストリア軍はグロッカの戦い(英語版)で敗北、8月21日にベオグラード条約でオスマン帝国と単独講和した[9]。これはロシアの勝利を警戒した可能性もある[10]。オーストリアが脱落した上にスウェーデンによる侵攻の恐れもあって[11]、さらにオスマン帝国がスウェーデン、プロイセン、ポーランドと同盟を締結したため[12]、ロシアは9月29日のニシュ条約でオスマン帝国との講和を余儀なくされた[13]。