オーストラリアサッカー連盟
名称
英語表記Football Federation Australia
略称FFA
FIFAコードAUS
歴史
設立1961年
FIFA加盟1963年
OFC加盟1966年-2006年
AFC加盟2006年
組織
国または地域 オーストラリア
本部シドニー
会長スティーブン・ローウィ
オーストラリアサッカー連盟(Football Federation Australia)はオーストラリアのサッカーを統括する団体。略称は(FFA)。目次 1921年にAustralian Soccer Associationとしてシドニーで設立。しかし1960年に国際サッカー連盟(FIFA)から活動停止とされた。 1961年にAustralian Soccer Federation(略称:ASA)として再設立。FIFAへ罰金を支払い、1963年に再加盟した。 1964年にはアジアサッカー連盟(AFC)へ加盟申請も却下され、1966年にニュージーランドとともにオセアニアサッカー連盟(OFC)を結成した。 2005年、名称をFootball Federation Australia(略称:FFA)に改称。同年にAFCへの転籍を申請し、4月17日にOFCを脱退。2006年1月1日付けでAFCに加盟した。 オーストラリアでは長らく、「3種類のラグビー、水泳、クリケット」が人気で、特に3種類のラグビー(オージーフットボール、ラグビー、ラグビーリーグ)とクリケットが4大スポーツと言われていた。オーストラリアは人口を増やすために、移民を積極的に受け入れてきた。サッカーは特に欧州系移民の間で盛んで競技人口も多かったが、一般の国民にとってのサッカーは移民のスポーツであり、「観るスポーツ」としてはマイナースポーツであった。ところが、オーストラリア政府主導の国家プロジェクトとも言うべき一連の改革『オーストラリアサッカー革命』により、オーストラリアサッカーは劇的な変貌を遂げた(ある有力紙記者は「天地が変わった」、「まさにおとぎ話」などと話している)。 はじまりは、FIFAワールドカップ・日韓大会の開催であった。初めて時差なしで観戦出来たこの大会で、オーストラリア国民のサッカーへの関心が高まった。そこに商業的価値を見出したオーストラリアの当時の首相ジョン・ハワードは「サッカー」をきっかけとしたオーストラリアのアジアへの進出というプランを描き、オーストラリアサッカー界改革を決意。オーストラリア国内最大手のデパートの経営者であり、国内有数の資産家のフランク・ローウィ オーストラリア初のプロリーグAリーグ誕生前にも、同国にはナショナルサッカーリーグ(NSL)というセミプロリーグが存在していた。 だがNSLは多くの問題があった。一つは財政破綻の問題である。1970年代から2004年までの間にNSLの累積赤字は日本円で約400億円に上るまでになっていた。毎年、政府はNSLに対して、補助金を支給してきたが、その使途も不透明であった。その為、政府としてもNSL改革は急務であった。 他の問題として、NSLのクラブのほとんどが移民のチームだったことがある。小都市のチームこそ、多人種混合チームも存在したが、大都市では移民のそれぞれの出身国のクラブが競い合っていた。そのため、試合では民族間の代理戦争とも言えるサポーター同士の衝突が頻繁に起きた。例えば、クロアチア系移民のチームのシドニー・ユナイテッド(旧シドニー・クロアチア) (Sydney United)とギリシャ系移民のチームのシドニー・オリンピック (Sydney Olympic)の試合では、クロアチア系移民とギリシャ系移民が衝突するわけである。そのような民族色が強い移民のチーム同士のリーグ戦に一般の国民が興味を抱くわけが無く、さらにチーム間のサポーター同士の衝突もあり、一般国民にとってのサッカーのイメージは暴力的で民族色の強い移民のスポーツというものであった。連盟も何の手も打たなかったわけではなく、1990年代からNSLのチーム名に民族的な由来を示すような名前をつけることを禁止し、「都市名のみ」または「都市名+愛称」の新しい名称に変えることを義務付ける[4] など、移民のスポーツからの脱却を図ったが、根本的な解決にはならなかった。 これらの問題を全て解決するために、フランク・レービ連盟会長の下、NSLを清算し、2004年11月に同国初のプロリーグAリーグを発足させた。Aリーグは『民族』ではなく、日本のJリーグ同様『地域性』をコンセプトにすえ(例えば、シドニー市民は、民族に関係なくシドニーFCを応援する)、1都市1チームを原則として、民族色の強いチームを排除し、暴力的なイメージを一新させた。なお、Aリーグに加入できなかったNSLのチームは、規模を縮小し、Aリーグとは別の独自のリーグ戦を開催している。Aリーグは2005年8月より本格的にリーグ戦を開始し、Aリーグ全体で平均観客動員数1万人を記録(シドニーFCは平均観客動員数1万5千人)[5]。Aリーグは、移民のスポーツであり、マイナースポーツであるとのオーストラリアのサッカーのイメージを一新させることに成功した。 一般的にサッカーの発展には、「国内リーグ」の成長と「代表」の強化の両輪が必要である。Aリーグが発足した次は代表強化であった。オーストラリア代表は、FIFAワールドカップ・西ドイツ大会に初出場して以来、32年間世界の舞台から遠ざかっていた。移民が多いオーストラリアは欧州リーグでプレーしている選手が多く(例えば、FIFAワールドカップ・日韓大会のプレ大会を兼ねた2001年日韓コンフェデレーションズカップ(以下コンフェデ杯と略)でのオーストラリア代表は大会登録メンバー23人中、オーストラリアのクラブに所属していたのはわずかに4人[6])、個々の実力ではFIFAワールドカップに出場してもおかしくはないほど上がっていた。実際、オーストラリア代表は1998 FIFAワールドカップ・予選、2002 FIFAワールドカップ・予選と2大会連続で以前と同様に大陸間プレーオフで出場を阻まれたものの、いずれも惜敗(アウェイゴール数の差など)であった。2度目のFIFAワールドカップ出場は現実的な目標となっていたのである。 FIFAワールドカップ2度目の出場の最後の決定打となったのは世界的名将フース・ヒディンク監督招聘であった。オーストラリア代表はFIFAワールドカップ・ドイツ大会のプレ大会を兼ねたFIFAコンフェデレーションズカップ2005グループリーグA組を勝ち点0の最下位で終えると、フランク・ファリーナ監督を更迭し、異なるチームでFIFAワールドカップ2大会連続ベスト4を成し遂げたヒディンク監督招聘を決断。
1 歴史
2 オーストラリアサッカー革命
2.1 概要
2.2 初のプロリーグAリーグ誕生
2.3 32年ぶりのW杯出場
2.4 AFC転籍
3 運営
4 関連項目
5 脚注
6 外部リンク
歴史
オーストラリアサッカー革命
概要
初のプロリーグAリーグ誕生
32年ぶりのW杯出場