オーク・リッジ(Oak Ridge)は、アメリカ合衆国テネシー州のアンダーソン郡にある都市。人口は3万1402人(2020年)[1] 。市域の一部はローン郡に入っている。ノックスビルの西40キロメートルに位置している。
第二次世界大戦中の1942年に連邦政府の巨大プロジェクト「マンハッタン計画」の拠点として設立された。この研究所は核兵器開発の極秘施設だったことから、ニックネームは『アトミック・シティ(原爆都市・核兵器都市)』[2]、『シークレット・シティ(秘密都市)』[3]、『リッジ』、『シティ・ビハインド・ザ・フェンス(塀の向こうの町)』[4]。現在もオークリッジ国立研究所は町の経済、文化に対して重要な役割を担っている。 ウッドランド期(約1000B.C.?A.D.1000)の最古の居住者、パレオ・インディアンの痕跡がクリンチ渓谷
歴史
19世紀、北東をエッジムーア、エルザ、南西をイースト・フォーク、ホィート、西をロバーツヴィル、南東をベセル、スカーボロに分け、農村として発展させた。1790年代後期に初めて入植した植民者達はチェロキーに土地を譲渡するよう条約を結び、これらの農村を創立して現在のアンダーソン郡となった。
土地の言い伝えによると、ジョン・ヘンドリックス(1865年?1915年)は神秘主義に関心を持つ風変わりな住人で、建設が始まる40年前にすでにオーク・リッジの創立を予言していた。娘が若い頃に亡くなり、次に妻が、そして遺された家族も次々亡くなると彼は信心深くなり、近所の住民達に幻想を見たことを話すようになった。彼が幻想を話すようになると、住民達は彼が狂気になったと感じて収容所に入れさせた。いくつかの刊行物によると[8]、彼が繰り返し話した幻想は、彼の死後28年後の町の様子や生産施設を不思議なほどに正確な描写していた。近所の住民達や親戚達によるこの時の話を以下に記す。
森の中で私は地面に横たわり空を眺めていると、雷鳴のような大きく鋭い声が聞こえてきた。40夜地面に寝ればこの土地の未来が見えるようになるとその声は言った。ベア・クリーク渓谷はいつか大きな建物や工場で埋め尽くされ、それはかつてない大きな戦争で勝利に導くであろう。そこはブラック・オーク・リッジと呼ばれる町になり、庁舎はシヴィア・タドロックの農場とジョー・パイアットの土地の間にできる。ルイビル&ナッシュビル鉄道の本線の分岐点ができ、1本はロバーツヴィルに向かい、もう1本はスカーボロに向かう。大きな動力が大きな穴を掘り、何千人もの人があちこち逃げ回る。ここの住民達は何かを作り出し、大きな音がして混乱して地球が揺れる。私は見た。きっと起こる[8]。
1942年10月からアメリカ陸軍工兵司令部はこの地をマンハッタン計画のために利用し始めた。アンダーソン郡の多くの住民が新鮮に記憶しているのが、テネシー川流域開発公社がノリス・ダムのための土地を買収したのと違い、部隊により即刻、最後の『宣告』として告げられたことである。多くの住民が、帰宅した際にドアに貼ってあった立ち退き警告で初めて知らされた。ほとんどの者が退去に6週間の猶予を与えられたが、数名は2週間しか与えられなかった。また何人かは補償もなく追い出された。1943年3月までにマンハッタン計画の前身がこの地に移転し、フェンスや検問所が建てられた。アンダーソン郡は土地の7分の1と、例年見込んでいた固定資産税の391,000ドルを失った。近隣は緊張を極め、マンハッタン計画が行なわれている間、オーク・リッジと近隣の市町村とは関係を築くのが難しくなっていた[9]。 1942年、アメリカ合衆国連邦政府はマンハッタン計画の発展のためにこの地を選んだ。マンハッタン計画の軍隊長、レズリー・グローヴス少将はいくつかの要因によりこの地を気に入っていた。比較的人口が少なく、手頃な価格で買収でき、にもかかわらずハイウェイも鉄道も便が良く、水も電力もできたばかりのノリス・ダムから引くことができた。最終的にこの計画地は17マイル(12km)の長さの谷にでき、谷そのものは線状でいくつかの尾根により分断されており、4箇所の工場の災害、『まるで爆竹の紐を引くように』爆発することから自然に保護することができた[10]。 人口は1942年の約3,000名から1945年の75,000名に増えたものの、この場所及び人口の少なさはこの計画の秘密を保持するのに都合が良かった。ウラン分解施設K-25
マンハッタン計画
1942年終盤からアメリカ陸軍工兵司令部は軍のマンハッタン技術者区域の官庁のもとのCEWのため60,000エーカー (240km2)以上の土地を獲得。K-25、S-50、Y-12の施設は核分裂性物質同位体ウラン235をほぼ完全な同位体ウラン238からなる天然ウランと分けるために建てられた。Y-12でウラン分解の工程が要求された施設建設中、銅の不足により MEDにアメリカ合衆国財務省から電磁石コイルの導体に代用するための銀塊14,700トンを借りるよう強要した[12]。現在のオークリッジ国立研究所の場所となるX-10は黒鉛炉に使われるプルトニウムの製造のための試験工場として建設された。
マンハッタン計画のために多くの従業員を雇ったため、軍は渓谷の東端に従業員のための居住区を計画。マンハッタン計画の成功のために、巨大なキャンプ場ではなく恒久的な住居を建設することにした。
建築会社スキッドモア・オーウィングズ・アンド・メリル(SOM)は町および住居の設計を請け負った[13]。SOMと提携していたジョン・O・メリルはこの地の秘密の建設のためにテネシー州に転居した[14]。彼はすぐに300マイルの道路、55マイルの鉄道線路、10軒の学校、7軒の劇場、17軒のレストランおよび喫茶店、13軒のスーパーマーケットの建設に取り掛かった[15]。9,400冊の蔵書の図書館、オーク・リッジ交響楽団、スポーツ施設、17宗派の教会、フラー・ブラシ・カンパニーの営業が新しい町および75,000名の住民に対応した[16]。セメスト(セメントとアスベストの合成)のパネルで作られたプレハブのモジュール式の家、アパート、寮などは迅速に完成することができた。道は『都市計画』に沿って作られた。
オーク・リッジ高速道路、テネシー通り、ペンシルベニア通り、ヒルサイド通り、ロバーツヴィル通り、アウター通りと名付けられた東西道路をメインとして当初の道路が建設された。これらの通りに繋げる南北のメインの通りを『アヴェニュー』とし、これらから分岐する通りを『ロード』、『プレイス』、『レーン』、『サークル』とした。行き止まりとなる『レーン』と『プレイス』を繋ぐ通りを『ロード』とした[17]。メインの通りの名前は東から西に向かいアルファベット順(例;東端にアラバマ通り、西端にヴァーモント通り)とし、これに繋がる小さな通りはメインの通りのイニシャル(フロリダ通りに繋がる道はF)から始まる名前が付けられた[17][18]。これは新しい居住者にわかりやすいようにといった配慮であった。
家屋は通りの名前の頭文字によって分けられた。Aの通りは寝室1室の最も小さい家、Bの通りは寝室2部屋、Dの通りは寝室3部屋と大きな居間、Eの通りは2階建て4ユニット構造、Fの通りは最も大きな家屋であった。最も小さな家屋は『フラット・トップス』と呼ばれる仮設住宅で、町の西端の尾根の上の辺りに増えていった。