オーギュスト・ロダン
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オーギュスト・ロダン
Francois-Auguste-Rene Rodin
ナダールによる肖像写真(1893年)
本名フランソワ=オーギュスト=ルネ・ロダン
誕生日1840年11月12日
出生地 フランス王国パリ
死没年 (1917-11-17) 1917年11月17日(77歳没)
死没地 フランス共和国ムードン
国籍 フランス
芸術分野彫刻
代表作

地獄の門』(未完)

考える人』(1880年)

カレーの市民モニュメント

『大聖堂』

接吻

『バルザック記念像』

『青銅時代』

姉と弟

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フランソワ=オーギュスト=ルネ・ロダン(フランス語: Francois-Auguste-Rene Rodin、1840年11月12日 - 1917年11月17日)は、フランス彫刻家19世紀を代表する彫刻家とされ、「近代彫刻の父」と称される。代表作に『地獄の門』、その一部を抜き出した『考える人』など。
生涯
生い立ちと長い職人時代

パリ在住の労働者階級の子として生まれた。父ジョアン・バティスタは警察に雇われる事務員で、オーギュストは妻マリーとの間に生まれた2人目の子供だった。ロダンはエコール・デ・ボザールなどの美術の専門教育(アカデミズム)を受けず、特に青年期以降はほとんど独学で彫刻を習得したことで知られている[1]

本人の談によれば、10歳の時に初めて絵を描いたことで美術に興味を持ち、14歳の時に地元のプティット・エコール(小さな学校)と呼ばれる工芸学校に入校した。子供達に絵画やデッサンを教えていたルコック・ボードランという教員はロダンを最初に評価した人物で、後年にロダンは感謝の言葉を残している[2]。17歳に工芸学校を退校するまで、ジュール・ダルーアルフォンス・ルグロなど同年代に活躍する画家や彫刻家とも知り合っている。

プティット・エコールを退学した直後、ロダンは学業継続を望んでエコール・ボザール(グラン・エコール)に入学を志願した。ロダンは同窓生をモデルにした塑像を提出したが、ボザールからの評価は不合格だった。諦めずに翌年と翌々年も塑像を提出し続けたが、ボザールからは全く相手にされなかった。当時のボザールは技術的な要求水準がさほど高くなかったとされ[3]、数度にわたって入学を拒否されたことは非常に大きな挫折といえた。ロダンが入学を拒絶された理由は、ボザールでの新古典主義に基いた彫刻教育と異なる嗜好で作品を作っていたことも一因かもしれない。入校を諦めたロダンは室内装飾の職人として働きながら、次の道を模索していた。

1863年、ボザール入学を果たせなかったロダンに追い討ちをかけたのが姉マリアの死だった。ロダンを経済的に支えていた姉は、恋人との失恋劇で精神を病み、俗世を捨てて修道女になっていた。その姉が体調を崩して修道院で病没すると、姉の恋人を最初に紹介したロダンは激しい罪悪感に苦しんだという。姉の後を追うように修道院に入会したロダンは修道士見習いとして、美術から神学へと道を変えようとした。だがロダンの指導を任されたピエール・ジュリアン司教は彼が修道士に不向きだと判断して、美術の道を続けるように諭した。

修道会を離れたロダンは動物彫刻の大家であったアントワーヌ=ルイ・バリーに弟子入りして、深い影響を受けた[4]。また24歳の時には生涯の妻となる裁縫職人のローズと知り合い、長男オーギュスト・ブーレ・ロダンをもうけているほか[5]、装飾職人としての労働も再開した。普仏戦争が勃発すると彼も徴兵対象となったが、近視であったことから兵役を免れた[6]。それでも戦争の影響で仕事が減って生活が苦しくなり、30歳までロダンは家族を養うだけの稼ぎを持てなかった[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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