オレンジバーグ_(サウスカロライナ州)
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オレンジバーグ

Orangeburg
ラッセル通り
標語: "庭園都市"
サウスカロライナ州内の位置
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度29分49秒 西経80度51分44秒 / 北緯33.49694度 西経80.86222度 / 33.49694; -80.86222座標: 北緯33度29分49秒 西経80度51分44秒 / 北緯33.49694度 西経80.86222度 / 33.49694; -80.86222
アメリカ合衆国
サウスカロライナ州
オレンジバーグ郡
政府
 ? 市長マイケル・C・バトラー
面積
 ? 合計8.3 mi2 (21.5 km2)
 ? 陸地8.3 mi2 (21.47 km2)
 ? 水域0.0 mi2 (0.02 km2)
標高243 ft (74.676 m)
人口(2020年)[1]
 ? 合計13,240人
 ? 密度1,600人/mi2 (620人/km2)
等時帯UTC-5 (東部標準時)
 ? 夏時間UTC-4 (東部夏時間)
郵便番号29115-29118
市外局番803
FIPS code45-53080[2]
GNIS feature ID1249990[3]
ウェブサイト ⇒www.orangeburg.sc.us
中心街のループ 商店街

オレンジバーグ(: Orangeburg)は、アメリカ合衆国サウスカロライナ州の都市。オレンジバーグ郡郡庁所在地である[4]。人口は1万3240人(2020年)。州都コロンビアの南東60kmに位置している。ピードモント台地のエディスト川北支流に沿っており「庭園都市」と呼ばれる。

市内の主要大学2校に毎年学生が入って来ることで活性化されている。クラフリン大学は2014年に雑誌「ワシントン・マンスリー」から州内最良の教養系大学、国内トップの黒人系大学と位置付けられた[5]。サウスカロライナ州立大学は州内で唯一原子力工学の大学院課程があり、交通分野で唯一修士課程があるのが特徴である。1998年、この大学はアメリカ合衆国議会アメリカ合衆国運輸省から国内大学輸送センター33か所の1つ、かつ州内では唯一のものとして指定された。
歴史

オレンジバーグとなった地域のヨーロッパ人による開拓は、ジョージ・スターリングがインディアンとの毛皮交易のための基地を設けた1704年が始まりだった。1730年、サウスカロライナ植民地議会は入植を奨励するために、この地域をタウンシップとして編成し、イングランド王ジョージ2世の義理の息子であるオラニエ公ウィレム4世にちなんでオレンジバーグと名付けた。1735年、スイス人ドイツ人およびオランダ人移民200人の植民地が、ノースエディスト川の岸近くに町を形成した。その場所は土壌が肥沃であり、野生生物も多かったので魅力的だった。川が大西洋岸にあるチャールストン港までの重要な輸送用水路となって、地域の農業や林業の産品を運び、上流には船舶用の部品を運んだ。町は間もなくその地位を確立し、主に小規模な自作農からなる植民地として成功した。

オレンジバーグ初の教会はドイツのルーテル教会が設立したものだった。後に米国聖公会と指定され、教会堂を建設し、植民地の免税とされた。この教会堂は1763年以前に村の中心に建てられたが、アメリカ独立戦争時の戦闘で破壊された。新しい教会が建設され、南北戦争のときには、ウィリアム・シャーマン北軍を率いて進軍したときに天然痘の病院として使われた。

アメリカ独立戦争後、郡の性格が劇的に変化した。イーライ・ホイットニーの発明により、大量生産されたコットン・ジンが綿花の短繊維すなわち「グリーン・シード」を加工することで効率を上げ、綿花栽培を利益の出るものにした。綿花はアップランド地域で容易に栽培され、郡内は急速に大型の綿花プランテーションとして開発された。農業の労働力は奴隷化されたアフリカ系アメリカ人が供給した。彼らの多くは、国内での奴隷貿易を通じて海岸部すなわちアッパーサウスから強制的に移住させられた者達だった。郡でも市内でも奴隷の人口が多数派になった。南北戦争後に解放された黒人は教育を受けられるようになり、オレンジバーグ市内には2つのカレッジが設立され、特に第2のカレッジは、人種差別下にあった州内で全員が黒人学生である土地払い下げ教育機関として指定された。黒人は、白人が支配する州議会で成立したジム・クロウ法の適用を受けるようになった。彼らは20世紀への変わり目に成立したサウスカロライナ州憲法によって投票権を奪われ、有権者登録にも障害が設けられた。

第二次世界大戦後に黒人達による公民権復活運動が勢いを増した。1960年代、オレンジバーグは、クラフリン・カレッジとサウスカロライナ州立カレッジ両校学生と、市内の黒人住民による公民権運動の中心となった。1954年、アメリカ合衆国最高裁判所ブラウン対教育委員会裁判の判決を出し、公立学校における人種分離は違憲であると宣言したので、地元の黒人は1956年に学校における人種統合を求めた。白人は経済的に報復し、活動家をクビにしたり、貸し家から追い出したりした。カレッジの学生は、ハンガーストライキ、ボイコット、さらに大衆行進によってそういった人々を支援した。1960年、人種平等会議が組織したシットインと人種統合行進に参加した400人以上の学生が逮捕された。

1963年8月、全米黒人地位向上協会のハーロー・コールドウェル博士が主宰したオレンジバーグ自由運動が、オレンジバーグ市長と市政委員会に人種統合に関する10の要求事項を提出した。その交渉が失敗した後、アラバマ州バーミングハム運動に類似した大衆行動は、1,300人以上の参加者が逮捕されることになった。公共の場所で人種差別を止めさせる運動が続き、特にアメリカ合衆国議会が1964年公民権法を成立させたあとはなおさらだった。1968年2月8日、人種差別が行われていたボウリング場に対する抗議が続いた後、そのボウリング場の近くで警官がサウスカロライナ州立大学の黒人学生を襲ったときに暴力沙汰が起きた。警官が学生の集団に向かって発砲し、サミュエル・ハモンド、ヘンリー・スミス、デラノ・ミドルトンの3人を殺し、その他27人を負傷させた。これは「オレンジバーグ虐殺」と呼ばれるようになった[6]

2000年5月、オレンジバーグ市はオレンジバーグ郡特色ある町づくりイニシアティブを創設した。これはオレンジバーグ中心街再活性化協会、「タイムズ・アンド・デモクラット」紙、オレンジバーグ郡商工会議所、オレンジバーグ郡開発委員会による町の開発における共同事業である[7]。2005年、全米市民同盟がオレンジバーグ郡に誰もが欲しい全米都市賞を与えた(郡も表彰対象となる)。これは市民の優秀さを認識し、奨励するものである。市民、政府、企業、非営利団体が町の重要な問題についてうまい解決法を示して成功した場合に表彰している[8]

2007年、オレンジバーグ市ではサウスカロライナ州立大学キャンパスにあるマーティン・ルーサー・キング・ジュニア公会堂で、初の民主党アメリカ合衆国大統領選挙候補者討論会を開催した。当時のアメリカ合衆国上院議員バラク・オバマが参加者の1人だった。.オレンジバーグ市にあるアメリカ合衆国国家歴史登録財に指定された建造物などとしては、次のものがある[9]



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