この項目では、西部開拓時代にアメリカ合衆国の開拓者達が通った主要道について説明しています。西部開拓時代を題材にしたコンピュータゲームについては「オレゴン・トレイル (ゲーム)」をご覧ください。
Oregon Trail
IUCNカテゴリV(景観保護地域)
オレゴン・トレイル
地域ミズーリ州, カンザス州, ネブラスカ州, ワイオミング州, アイダホ州, オレゴン州
創立日1843年
運営組織国立公園局
1852年-1906年のオレゴン・トレイル
オレゴン・トレイル(オレゴン街道とも呼ばれる、英: Oregon Trail)は、19世紀に北アメリカ大陸の西部開拓時代にアメリカ合衆国の開拓者達が通った主要道の一つである[1]。オレゴン・トレイルはマニフェスト・デスティニー、すなわちアメリカ合衆国を大西洋から太平洋まで拡げるという文化的目標の達成に貢献した。幌馬車で大陸の半分にあたる2,170マイル (3,500 km)を5,6ヶ月かけて旅した道程は、後にミズーリ州、カンザス州、ネブラスカ州、ワイオミング州、アイダホ州およびオレゴン州となった6州にまたがっていた。1841年から1869年の間、オレゴン・トレイルは現在のアメリカ合衆国となった太平洋岸北西部に移住する開拓者に使われた。1869年に大陸横断鉄道が開通すると、この道を長距離で旅する人は減少し、徐々に鉄道に置き換わっていった。
歴史
アスター遠征隊旅の光景
現在のアメリカ合衆国を横切る最初の陸路は1804年から1805年にかけて行われたルイス・クラーク探検隊のとった経路だった。探検隊は西海岸に至る実際的な経路を発見したと信じた。しかし、ロロ・パスと呼ばれるロッキー山脈を抜ける経路は幌馬車が通るには難しすぎるということが分かってきた。1810年、ジョン・ジェイコブ・アスターがアスター遠征隊
(英語版)(アストリアンとも)を起こし、アストリア砦(英語版)のあるコロンビア川河口に毛皮の交易所を作るために陸路の物資供給経路を見つけようとした。アスターの同行者の大半やそのスタッフ全員は元ノースウエスト会社(ノーウエスターとしても知られている)の雇員であった。この地を領土としていたインディアン部族のブラックフット族の攻撃を恐れた遠征隊はルイス・クラーク遠征隊の経路よりも南の峠を選び、現在のサウスダコタ州からワイオミング州に入りスネーク川を下ってコロンビア川に入った。
遠征隊のメンバーでノーウエスターの共同経営者でもあったロバート・スチュアート達は、帰路東方に向かった。遠征隊は途次、峠道サウス・パス(英語版)を見つけた。これは広くて高度の低い峠で、ワイオミングでロッキー山脈を抜けるものである。遠征隊はプラット川を通って旅を続けた。この経路は幌馬車でも通れることがわかった。スチュアートの日記にはその細部まで行き届いた描写がある[2]。
遠征隊が帰路につく前、アメリカ毛皮会社のスタッフがイギリスのノースウエスト会社のスタッフに砦を売った。ノースウエスト会社のスタッフは米英戦争の時にスネーク川経由でその交易所を運営した。アストリア砦は米英戦争の終戦でアメリカ合衆国に返還された。しかし、イギリスのハドソン湾会社がこの地域の毛皮交易を管理するためにやって来て、特に1821年のノースウエスト会社との合併後は管理を強めた。 しかし、西部の開拓は直ぐには始まらなかった。1806年のゼブロン・パイク中尉や1819年のスティーブン・ロング少佐による遠征隊の報告書では、グレートプレーンズ(大平原)を「人間が住むには適していない」とし、「大アメリカ砂漠」とも表現していた。この記述は主に木材や地表水が比較的見られなかったことに基づいていた。砂の多い荒地のイメージが「砂漠」という言葉で増幅され、バッファローの大きな群れに関する多くの報告書では和らげられた。オガララ帯水層が発見されて灌漑に使われ、鉄道が遠隔地の市場まで農業生産物を運び、木材を運んで来るようになって初めて開拓が進み始めた。この間、グレートプレーンズは大方の開拓者達の興味を惹かないままであり、特にオレゴンの肥沃な台地、大きな川および海港と比較したときはそうだった。 オレゴン・トレイルの経路は1823年には既にフランス系カナダ人の毛皮交易業者や探検家によって調査が進み始めた。この道は1830年代には毛皮交易業者、伝道者、軍隊の遠征軍などに頻繁に使われるようになった。それと同時に個人の小さな集団や時には家族が道を辿り始め、ワシントン州のバンクーバー砦まで辿り着いた者もいた。 1839年5月1日、イリノイ州ピオリアの人々がアメリカ合衆国のためにオレゴン・カントリーに殖民として入り、またそこで活動するイギリスの毛皮交易会社を追い出すために故郷を出発した。ピオリア隊の人々はオレゴン・トレイルに足跡を残した最初の開拓者であった。この人々をトマス・J・ファーナムが引率し、自分達のことをオレゴン・ドラグーンズと呼んだ。
大アメリカ砂漠
ピオリア隊