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オルレアン家(オルレアンけ、仏: Maison d'Orleans)は、フランスの公爵であるオルレアン公(duc d'Orleans)の家系。オルレアン公は王太子(ドーファン)に次ぐ国王の男子、あるいは国王の弟に授けられる、フランスの公爵位のうちでも特に格式の高いものであった。公爵位は男子の相続人が続く限りはその家系で継承されたが、国王に嫡子がいない場合に王位継承者を出すなど重要な位置づけにあり、王家とも密接に関わりを持っていた。
オルレアン公の家系にはヴァロワ家支流のヴァロワ=オルレアン家(Maison de Valois-Orleans)とブルボン家支流のブルボン=オルレアン家(Maison de Bourbon-Orleans)があり、それぞれで主に2系統が存在したが、通常単にオルレアン家と呼ぶ場合には最後の系統を指す。以下、この最後の系統について説明する。 ブルボン=オルレアン家 オルレアンス=ブラガンサ家
ブルボン=オルレアン家
Maison de Bourbon-Orleans
主家ブルボン家
創設1660年2月2日
家祖オルレアン公フィリップ1世
現当主ジャン・ドルレアン
分家
ブルボン朝で最初にオルレアン公を授爵されたのはアンリ4世の次男(ニコラと通称される王子)であるが、わずか4歳で死去した。次いでその弟ガストンが授爵して一家をなしたが、成人した子供が娘のみであったため1代で断絶した。
ルイ14世は、1660年に叔父ガストンが死去すると、継承者のなかったオルレアン公位を唯一の弟フィリップ(1世)に授爵した。通常ブルボン=オルレアン家または単にオルレアン家として知られるのはこの家系である。フィリップ1世から6代目のオルレアン公ルイ・フィリップ3世は1830年の7月革命により、シャルル10世に代わって「フランス人の王ルイ・フィリップ」として王位に就く。これをオルレアン朝または7月王政と呼ぶ。18年後の1848年に起きた2月革命によりルイ・フィリップ王は退位し、イギリスに亡命したが、その家系は現在も続いている。
ブルボン家のオルレアン公
第1期
ニコラ(1607年 - 1611年)
第2期
ガストン(1626年 - 1660年)
第3期:(第2)ブルボン=オルレアン
フィリップ1世(1660年 - 1701年)
フィリップ2世(1701年 - 1723年)
ルイ(1723年 - 1752年)
ルイ・フィリップ1世(1752年 - 1785年)
ルイ・フィリップ2世ジョゼフ(1785年 - 1793年) フィリップ・エガリテを名乗る。
ルイ・フィリップ3世(1793年 - 1830年) 1830年に国王ルイ・フィリップとなる(在位:1830年 - 1848年)。
フェルディナン・フィリップ(1830年 - 1842年) 王太子。オルレアン公の称号を継承。
フィリップまたはルイ・フィリップ4世(1842年 - 1894年) 王太孫。パリ伯の称号を用いた。
フィリップ3世(1894年 - 1926年)
オルレアン派王位請求者現代のオルレアン家は、正統派の王位請求者として復古王政期の紋章を用いている詳細は「オルレアニスム」を参照
2月革命によりルイ・フィリップが退位した後、ブルボン=オルレアン家当主は正統派の王位請求者(ブルボン家宗家、後にスペイン・ブルボン家(カルリスタ系))と競合しつつ、現在まで名目上のフランス王を称している。その支持者はオルレアニスト(オルレアン派)と呼ばれる。ただし、競合していたフランス・ブルボン家の断絶後、オルレアン家はサリカ法典に従って自家が正統王朝を引き継いだとみなしており、レジティミスム的側面も有している。
ルイ・フィリップ1世(1848年 - 1850年)
パリ伯フィリップ(当初オルレアン派の王位請求者としてルイ・フィリップ2世、ブルボン宗家最後の男系男子となったシャンボール伯アンリの没後に、サリカ法に基づく正統派の王位請求者としてフィリップ7世に変更、1850年 - 1894年) フェルディナン・フィリップの子。
オルレアン公フィリップ(フィリップ8世、1894年 - 1926年) パリ伯フィリップの子。
ギーズ公ジャン(ジャン3世、1926年 - 1940年) パリ伯フィリップの弟シャルトル公ロベールの子。
パリ伯アンリ(アンリ6世、1940年 - 1999年) ギーズ公ジャンの子。
パリ伯兼フランス公アンリ(アンリ7世、1999年 - 2019年) パリ伯アンリの子。
パリ伯兼フランス公ジャン(ジャン4世、2019年 - )パリ伯兼フランス公アンリの子。
ブルボン=オルレアン家系図