この項目では、オスマン帝国の皇帝について説明しています。その他の用法については「オルハン (曖昧さ回避)」をご覧ください。
オルハン
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Orhan
オスマン皇帝
オルハン
在位1324年- 1362年
出生1281年
死去1362年
埋葬ブルサ
配偶者ニールーフェル・ハトゥン[1][注 1]
テオドラ
子女スレイマン
ムラト1世
ハリル
等
家名オスマン家
王朝オスマン朝
父親オスマン1世
宗教イスラム教(スンナ派)
サイン
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オルハン(Orhan, 1281年[2][注 2] - 1362年)は、オスマン帝国の第2代皇帝(在位: 1324年 - 1362年)。初代皇帝オスマン1世の子。
オルハンの時代のオスマン帝国は、遊牧と略奪によるガーズィー
(英語版)[注 3]集団から君侯(ベイリク)国家への転換期であったといえ[3]、実質的な建国者と評価される事も多い[4]。オルハンは即位以前の経緯がはっきりせず、母親は「オメル・ベイ」という人物の娘[注 4]だが、このオメル・ベイという人物自体が経歴不詳である。即位の経緯も「後継者の座をアラエッティンという兄弟と譲り合った末にオルハンが即位した(アラエッティンは小村の領主として静かに生きる道を選んだ)」と「オスマンの死後後継者争いが起きて王子たちが争っていたと仄めかす話」という正反対の内容(後者は東ローマ帝国の年代記より)が伝わっており、オスマン帝国側のオスマンの崩御後すぐに作られた公文書にも王子の名が列挙される中アラエッティンの名が無いことから、小笠原弘幸などは「アラエッティンとの兄弟愛溢れる逸話は、オスマン没後の王子たちの争いを糊塗するために創作された可能性がある。」としている[5]。
即位年については、1324年と1326年の2説が有力であり、即位時期もオスマン崩御後に帝位を継いだ説のほか、オスマンの存命中にすでに即位していたとする説も存在する[3]。
オスマンが率いていた集団は数百人規模の戦士集団で、その指導者はあくまでも仲間内の第一人者という立場であり、指導者の選出には同朋である戦士たちの推戴が必要とされていた[6]。オルハンは父の僚友たちの推戴によって即位し、父の遺志であるブルサ攻略を継続した。
1317年より父オスマンから軍の指揮権を委ねられ[7]、オスマン1世が行ったブルサ包囲にあたっての障害となる拠点を制圧、オルハネリ
(英語版)の城砦を破壊した。1326年4月6日にブルサの支配者を降して同地を征服、首都に定めてオスマン1世を埋葬した。遷都後は配下をコジャエリ方面に派兵、1331年3月2日にニカイア(現・イズニク)、1337年にニコメディア(現・イズミット)を征服して勢力を拡大する。
1329年にオスマンのニカイア包囲を解くため、東ローマ帝国より2000の正規兵が派遣されるが[8]、ペレカノンの戦い(英語版)で皇帝アンドロニコス3世パレオロゴス率いる東ローマ軍を撃破し、この勝利はオスマン1世から継承した軍団を辺境の軍事集団から一侯国に飛躍させるきっかけとなった[9]。ニカイアの攻撃は苛烈なものであり、ニカイア攻略直後にオルハンと面会したイブン・バットゥータは『大旅行記』で街が荒廃し、人口が流出して減少した様子を伝えた[10]。ニカイアの施設でかろうじて破壊を免れた二重の城壁は、往時の姿を今に留めている。
1335年から1345年の間にバルケスィルのカレスィ侯国(英語版)を併合[2]、カレスィ君侯アジランの死後に起きた二人の王子の争いに干渉した結果と言われる[11]この併合によって軽装艦船を有するカレスィの海軍[8]をそのまま手に入れ、バルカン半島進出の手段を獲得した。 このようにオスマン帝国と東ローマ帝国の間には軍事衝突が頻繁に起きていたが、当時東ローマ帝国はオスマン帝国よりもサルハン侯国、アイドゥン侯国を危険視しており[12]、やがて両帝国の間に同盟関係が生まれる。オルハンと東ローマ皇帝アンドロニコス3世が初めて対面したのは1333年のニコメディア包囲中と言われ、カレスィ侯国を牽制するために両帝国は同盟した。 1341年のアンドロニコス3世没後、東ローマ帝国ではヨハネス5世パレオロゴスとヨハネス6世カンタクゼノスの間で帝位をめぐる内紛が起こり、帝国間の同盟はより重要性を増した。ヨハネス5世とヨハネス6世はいずれもアナトリア半島の君侯国家と同盟を結び、オルハンはその一方であるヨハネス6世に味方して彼の登極を助けた。 1346年、オルハンはヨハネス6世の娘テオドラ(英語版
バルカン半島への進出
1352年から1353年の間に、ヨハネス6世への援助と引き換えにオルハンはカリポリス(現・ゲリボル)付近のチンペ城砦(英語版)を獲得した[15]。
1354年3月2日[16]にカリポリス一帯は大地震に見舞われ、カリポリスの街と城壁も被害を被ると、スレイマンはこの地震に乗じてカリポリスとテキルダー、ボラユル(英語版)、マルカラ(英語版)などのマルマラ海沿いの地域を占領した。ヨハネス6世はオスマン帝国が占領した都市の返還を両帝国の友好関係に訴え、また見返りとして大金の支払いを提案したが[16]オルハンは要求に応じず、バルカン半島の入り口となる拠点を手放そうとはしなかった。
一連のバルカン半島へのオスマンの進出は「蛮族の入寇」とは全く異質のものであり[17]、こうしたオスマン側の動向を受けて、ヨハネス5世はオルハンの子ハリル(英語版)に娘を嫁がせ、オスマン帝国との関係強化を図った。
晩年ブルサのオルハンの墓
オルハンの崩御年については諸説あり、1359年から1362年の間と推定されている。
有能な将軍で後継者と目されていた長子スレイマンは1357年[18]もしくは1362年[19]。に鷹狩りの最中の事故によって、父よりも先に没していた。そのため、バルカン半島方面におけるオスマン帝国の軍事活動は一時的に停滞した[20]。
残された王子はハリルとムラトの2人の名が伝えられているが、王位継承がどう行われたのかははっきりせず、スレイマンの崩御後ムラト即位まで話が飛んでいる(オルハンが崩御した説明がない)年代記まであるほどで、これは後世の年代記編纂者がこの部位を削除した結果と考えられており[21]、おそらくはオルハンの崩御後に息子らの間で後継者争いが起き[22]、継承戦に勝利した次子のムラトが帝位を継いだ。