(国旗)(国章)
1866年から1937年におけるオルデンブルク自由州の地図
公用語ドイツ語
首都オルデンブルク
国家代理官
1933年5月6日 - 1942年5月15日カール・レーバー
1942年5月27日 - 1945年4月パウル・ウェゲナー
州首相
1919年7月21日 - 1923年4月17日テオドール・タンツェン
1923年4月17日 - 1930年7月13日オイゲン・フォン・フィンク
1930年11月14日 - 1932年6月16日フリードリヒ・カセボム
1932年6月16日 - 1933年5月5日カール・レーバー
面積
1939年5月5396km²
人口
1939年5月582.400人
変遷
ドイツ革命1918年11月9日
州憲法成立1920年11月30日
ニーダーザクセン州に合併1946年11月23日
現在 ドイツ
オルデンブルク自由州またはオルデンブルク自由国(ドイツ語: Freistaat Oldenburg)は、1918年のドイツ革命によるオルデンブルク大公国の解体により成立した、ドイツ国の自由州である。ヴァイマル共和政の下で議院内閣制を敷いていた。オルデンブルク大公フリードリヒ・アウグストが1918年11月11日に退位したことを受けて成立し、1933-1934年の強制的同一化による自治権剥奪を経て、1946年11月23日にニーダーザクセン州に統合されて消滅した。単にオルデンブルク州ともいう。オルデンブルク州議会 大公が廃位された後、労兵レーテはオルデンブルク=オストフリースラント・レーテ共和国の樹立を宣言した。11月11日にはドイツ独立社会民主党のベルンハルト・クーントの下に州総局 (Landesdirektorium) が設立され、1919年3月3日まで存続した[1]。旧州議会は、制憲議会の発足まで州議会としての役割を果たした。 1919年2月にドイツ国政府が介入[2]してクーントは逮捕された。2月23日には制憲議会が発足し[3]、6月に「オルデンブルク自由州憲法」が制定された。6月21日には第一回州議会が開会し、ドイツ社会民主党、ドイツ民主党、ドイツ中央党の3党連立政権である第1次テオドール・タンツェン内閣が発足した。 1919年10月にオルデンブルク秩序警察が設立されて治安維持の面で大きな変化が起きた。秩序警察は反乱鎮圧を目的として設立され、ドイツ国政府から設立資金の80%が供与された。設立後ただちに主要都市であるリュストリンゲン、オルデンブルク、デルメンホルストの警察任務を所管した他、リューベックおよびビルケンフェルトでは領土防衛にあたった。 1920年6月6日の州議会選挙の結果、社会民主党・民主党・中央党とドイツ人民党の連立交渉は行き詰まったが、引き続きタンツェン内閣が政権を担当した。その後、タンツェン内閣は1923年3月28日に州議会の過半数を確保できなかったことから総辞職した。この政権交代はルール占領に対する中央政府のクーノ内閣の抵抗とも関係していた[1]。1923年4月17日に、州議会は無所属のオイゲン・フォン・フィンクを州首相に選出した。フィンクは第1次 (1923年4月17日 - 1925年6月22日)・第2次 (1925年6月23日 - 1930年11月14日) と政権を担当し、続いてフリードリヒ・カセボム (1930年11月14日 - 1932年6月16日) が州首相となった。 1931年5月17日のオルデンブルク州議会選挙ではナチ党が得票率37.2%で州議会第一党となった[4]。 1932年5月29日の州議会選挙でナチ党は得票率48.5%で46議席中24議席を占め、絶対多数を確保した[5]。これにより、6月16日に初のナチ党による州政権であるカール・レーバー内閣が発足した。この際、ナチ党以外に国家人民党の2名と農村住民党の1名も賛成票を投じている[1]。 1933年5月から第二次世界大戦終戦まで、オルデンブルク自由州はブレーメン州とともに国家代理官の下に置かれた。国家代理官には州首相レーバーが就任し、1942年5月にはパウル・ウェゲナーに交代した。 1937年4月1日にオルデンブルク自由州の飛び地であったビルケンフェルトとリューベックは大ハンブルク法によりプロイセン自由州に移管された。ビルケンフェルトはライン県、リューベックはシュレースヴィヒ=ホルシュタイン県のオイティン郡に編入された。
歴史
1918年から1932年
ナチ党政権
ナチ党支配下から戦後
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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