オリー伯爵
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1828年の楽譜の表紙.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}関連ポータルのリンク

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『オリー伯爵』(オリーはくしゃく、フランス語: Le Comte Ory)は、ジョアキーノ・ロッシーニ によるフランス語による2幕からなるオペラで『オリ伯爵』や『オリィ伯爵』とも表記される。1828年8月20日パリ・オペラ座で初演された。リブレットウジェーヌ・スクリーブとシャルル=ガスパル・ドレストル=ポワルソン(Charles-Gaspard Delestre-Poirson)によって作成された[1]
作曲の経緯1910年上演時のラストシーン

セミラーミデ』を最後に、イタリアからフランスへ移住したロッシーニは、イタリア座(フランス語版)の指揮に加えてオペラの新作を書くという旨の契約をフランス政府と結んだ。程なく1824年9月にルイ18世が死去し、ロッシーニは新国王シャルル10世の即位を祝う作品を書くように命じられた。それが1825年 6月19日に初演された『ランスへの旅』である。作品は成功を収めたが、『ランスへの旅』は戴冠式用の機会作品だったためにロッシーニは、それをそのままお蔵入りにしてしまう。

『ランスへの旅』の成功の後、ロッシーニは元の計画に戻り、フランスの劇場との仕事を続けた。その間に持ち上がってきたのが『オリー伯爵』で、作曲は1828年7月頃行われた。フランスの歌手たちにベル・カントの技法を習得させる必要がある一方で、作曲するロッシーニにとっても台本作者にとっても、非常に制約を課された作業となってしまい、台本作者の一人スクリーブは初日に自分の名前を載せないように依頼するほどだった。そこでロッシーニは、自分も台本作りに関与する形でこの作品を成立させ、1828年8月20日にパリ・オペラ座での上演にこぎつけた。観客の反応は好調で、好色なオリー伯爵が小姓と片思いの女性の手によって散々に打ち負かされる内容を楽しんでいたが、他方イタリアではモーツァルトの『コジ・ファン・トゥッテ』と同様にふしだらな話として指弾され、話の内容を変更して上演しなければならなかった。
概要イゾリエ役を演じたコンスタンス・ジャヴュレック

本作は『ランスへの旅』の音楽の大部分と12の付加曲からできている[2]。本作は「『ランスへの旅』の中にあったロマン主義的な感性に基づく穏やかな皮肉を取り込んで、それをさらに発展させた、風刺とウィットに富んだ作品である。またその一方で、新たに書かれた第2幕の有名な三重唱における発展ぶり、すなわち声と楽器の感性の細やかさやその洗練の度合いにはベルリオーズさえもが目を見張ることになった」[3]。「特にメロディの純粋さがフランスの聴衆に好まれ、彼の代表作になった」と言われる[4]。「『オリー伯爵』の成功はすぐに明らかとなり、1884年までにパリだけで400回も上演され、国外でも数多く上演された。ベルリオーズは第2幕の三重唱の中に《この作曲家の完全無傷な傑作》を見ていた」[5]。『オペラ史』を著したD・J・グラウト(英語版)は「本作はオペラ・コミックの完全な技量を発揮した作品」で[6]「フランスのオペラ・コミックの作曲家たちに絶大な影響を与えた」と解説している[7]永竹由幸は本作を「洒落ていて、魅惑的な作品。イタリアのオペラ・ブッファの作曲家が、これほどフランス的に洗練され、ブッファの持つ泥臭さを全く脱して洒脱な音楽を書いたのは信じ難い。音楽的には最後が少々呆気ないのが惜しい」と評している[8]
初演後

英国初演は1829年 2月28日にイタリア語でロンドンキングズ劇場でモントシレ、カステッリ、クリオーニ、デ・アンジェリス、ガッリらの出演、指揮はボクサで行われた。米国初演は1830年12月16日ニューオリンズのオルレアン劇場にて、サン・クレール、パラドール、ドゥシャン、プリヴァーらの出演にて行われた[2]

日本初演は1976年6月25日東京郵便貯金ホールで、尾高忠明の指揮、佐藤信の演出、管弦楽は東京フィルハーモニー交響楽団、合唱は東京カンマーコーアで東京オペラ・プロデュースによって上演されている[9][10]
リブレットナダルによるポワルソン

原作はピエール=アントワーヌ・ド・ラ・ブラース(Pierre-Antoine de La Place)の編集による伝説集で、典型的な好色貴族でトゥレーヌに住んでいたとされるオリー伯爵の話である。「ピカルディ地方に伝わる中世のバラード1785年)を基にウジェーヌ・スクリーブとドレストル=ポワルソンは1816年に好色なオリー伯爵の女遍歴を基にした一幕物のヴォードヴィル(一幕の歌芝居)を書いた」[11]。オリーは実在の人物で、そのドン・ファンぶりは18世紀後期に人気のあったバラッドの題材となった[12]。しかし、この伝説はそのままリブレットとして使うのには短すぎたため、原作の内容を第2幕に充て、オリー伯爵がまんまと恋に成功しかける第1幕を継ぎ足すことにした。
『ランスへの旅』からの転用

本作においては『ランスへの旅』から転用された音楽が異なった状況で巧妙に再利用されている。その例は以下の通りである。

第1幕

導入部「娘さん早くおいでなさい」《Jouvencelles, venez vite》…『ランスへの旅』導入部「早く早く、さあ、しっかり」《Presto, presto... su, coraggio》

オリー伯爵のアリア「願わくば幸いなる運が皆さん方の祈りに応じ給わん事を」《Que les destins prosperes》…コルテーゼ夫人のアリア「輝かしい今日の美しい光とともに」《Di vaghi raggi adorno》

農婦たちを伴った教育係のアリア「私たちの庇護者で」《Vous, notre appui》…シドニー卿のアリア「むなしくも心から矢を引き抜こうとするが」《Invan strappar dal core》

アデル伯爵夫人のアリア「悲しみの餌食となり」《En proie a la tristesse》…フォルヌヴィル伯爵夫人のアリア「私は出発したいのです」《Partir, oh ciel, desio》

1幕フィナーレ「まさかのこと!」《Ciel! Oh terreur》…14声のコンチェルタート「ああ、かくも思いがけぬなりゆきに」 《Ah, a tal colpo inaspettato》


第2幕

オリー伯爵とアデル伯爵夫人の二重唱「ああ!なんと言うあなた様の高徳への、貴婦人様」《Ah, quel respect, madame》…コリンナと騎士ベルフィオールの二重唱「かのお方の神々しいお姿には」《Nel suo divin sembiante》

ランボーのアリア「この人里離れた」《Dans ce lieu solitaire》…ドン・プロフォンドのアリア「他に類のないメダル」《Medaglie incomparibili》

第1幕フィナーレは『ランスへの旅』から14人の無伴奏合唱によるコンチェルタートを使い盛り上がりを演出しており、第2幕のランボーのアリア「この人里離れた」の音楽は『ランスへの旅』の滑稽な早口での歌唱を征服物語に変えているなど、転用による同一音楽のイメージを変える工夫も凝らされている。
登場人物

人物名声域原語役柄1828年8月20日初演時のキャスト
(指揮者:
フランソワ・アブネック
オリー伯爵テノールComte d'Ory領主、隠者を装うアドルフ・ヌーリ
教育係バスGouverneurオリー伯爵の後見人ニコラ・プロスペル・ルヴァッスール(英語版)
イゾリエメゾソプラノIsolierオリー伯爵の小姓コンスタンス・ジャヴュレック(英語版)


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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