「オリョール」のその他の用法については「オリョール (曖昧さ回避)」をご覧ください。
市旗市章
位置
ロシア内のオリョール州の位置
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オリョール(Орёл, Oryol / Orel)は、ロシア連邦オリョール州の州都。人口は30万3169人(2021年)。モスクワから南南西へ360km、オカ川上流に位置する。ツルゲーネフやミハイル・バフチンの生地としても知られる。高速道路M2が通る。オリョールとは、ロシア語で鷲を意味する。 オカ川とオルリク川に挟まれたこの地には、考古学調査によれば12世紀以来、砦に囲まれた集落が置かれていた。当時はこの地は、モンゴル襲来以前の大国・チェルニゴフ公国の一部であったと考えられるが、文献には登場しておらずこの城塞都市の名前は不明である(当時はオリョールという名ではなかったと考えられる)。13世紀、この砦はカラチェフ公国のうちのズヴェニゴロド地区の一部であった。15世紀初頭にはリトアニア大公国に征服されその一部となっているが、リトアニアまたはジョチ・ウルスの略奪を受けて住民がいなくなり放棄された。 16世紀にはモスクワ大公国の一部となったが、イヴァン4世(イヴァン雷帝)は1566年、南の国境を守るため、この地に新たな要塞を建設することを命じた。オリョールの砦は1566年の夏に建設が開始され、1567年の春には完成している。この砦は古い要塞を再利用したため雪解けの時期には水没するような低地に設けられており、周囲の高地からの攻撃を受けやすく戦略的に理想的な位置にあるとは言いがたかった。しかし再利用のため早く完工することができた。オリョール市の風景
歴史
1636年にオリョールは再建された。もっと防衛に有利な高台に移転する計画が1670年代まで残っていたが、最終的には破棄された。クレムリ(城塞)も無用とみなされ、18世紀はじめに解体された。18世紀半ば以降、オリョールはロシア帝国の穀倉地帯の中心都市の一つとなり、鉄道が敷かれる1860年代まではオカ川を利用した水運が穀物の輸送路となっていた。
1708年、オリョールはキエフ総督府の一部となり、1719年には総督府の下にオリョール地区が置かれた。1727年には新設のベルゴロド県の下に移った。1778年2月28日(新暦の3月11日)にはベルゴロド県とヴォロネジ県の一部を分割してオリョール総督(наме?стник)が作られた。1779年にオリョール市街は新たな都市計画の下で再建され、オリョール川はオルリク川(「小さな鷲」)と改名された。