オリビエ・ルバスール (Olivier Levasseur、1688年から1690年の間 - 1730年) は、海賊周航を行ってインド洋のポルトガル船から莫大な財宝を掠奪したフランスの海賊。ナッソーの海賊共和国の一員でもあった。戦闘のさいに片目を負傷し眼帯を付けていたとされる[2]。
ノスリを意味するラ・ブーシュ (La Buse)や、口を意味するLa Boucheとして知られる。 大同盟戦争の間にカレーの裕福な家で生まれたルバスールは優れた教育を受け、海軍士官となった。スペイン継承戦争ではルイ14世より私掠免許を与えられ、フランスの私掠船長として活動した。彼は戦争が終わっても祖国には帰らず、海賊船ポスティリオン号の船長として海賊行為を行い、1716年にはベンジャミン・ホーニゴールドの海賊団に加わった[3]。フライング・ギャングの一員としてニュープロビデンス島で活動し、黒髭やチャールズ・ヴェイン、ヘンリー・ジェニングスなど同時期の有名な海賊たちと行動を共にした。ジェニングスが率いる沈没したスペインの財宝船からピース・オブ・エイト銀貨を略奪する攻撃にも参加したとされる[2]。 キューバ周辺での海賊行為の後、ホーニゴールドのイギリス籍の船は襲撃しないという信条によって一味は分裂し、ルバスールはサミュエル・ベラミーやポールスグレイブ・ウィリアムズの一派と共に一味から離脱することになった[4]。1717年、ルバスールたちは少しの間行動を共にしていたが、アメリカ海岸を襲撃するためにこれもまた分裂してしまう。ルバスールは200人の乗組員を率いてニューイングランドやメキシコ湾で海賊行為を行った[2]。 ブランキラ島でイギリス軍艦HMSスカーボロ号から逃走したルバスールは西アフリカへ向かい、1719年から1720年にかけてハウエル・デイヴィスおよびトマス・コクリンと行動を共にした[2][5]。当初ルバスールは備砲14門の船でデイヴィスの船を攻撃しようとしたが、相手が同業者であることを知るとよりよい船を手に入れるまで一緒に航海してほしいと頼み、デイヴィスもこれも快諾した[5]。シエラレオネではコクリンが仲間に加わり[6]、一行はルバスールのブリガンティン船でウィダーの砦を攻撃して占拠した[2][7]。港に船が入港した時、一行はそれを拿捕し、デイヴィスは当初の約束通りルバスールに船を与えた[8]。 作戦会議の結果一行は沿岸を下っていくことになったが、親密な関係はいつまでも続かず、ついには口論に発展してしまった[8]。デイヴィスは一行を解散することに決め、それぞれ別の針路を取ることにした[8]。 1721年4月、船の指揮権をエドワード・イングランドから奪ったジョン・テイラーと合流したルバスールはレユニオン島のサン・ドニにて、インド南西沿岸のゴアを出航後、嵐でマストが折れて港に避難していたポルトガル船ノッサ・セニョラ・ド・カボ号を発見した[9]。カボ号には東洋の財宝のほか、ゴア副王エリセイラ伯兼ロウリサル侯ルイス・デ・メネゼス、そしてポルトガル王に届くはずのダイヤモンドを満載していた[9]。 一味はカボ号を攻撃し、乗船していたエリセイラ伯爵も勇敢に応戦したが、白兵戦で剣を折られてようやく降伏した[9]。
略歴
フライング・ギャング
ハウエル・デイヴィスとの航海
海賊周航詳細は「ノッサ・セニョラ・ド・カボ号襲撃(フランス語版