オリビエ・ブーレイ(Olivier Boulay 、1957年8月9日 -)は、フランスのカーデザイナーである。2009年から中国、北京にあるダイムラー社の先行デザイン・センター(Advanced Design Centre)を率いる立場に就いている。[1] [2]目次 1981年までパリのEcole Superieure d'Arts Graphiques et d' Architectureで学び、1年後にはロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・アート(the Royal College of Art
1 経歴
2 ブーレイ顔
3 代表作
4 監修作
5 出典
経歴
1987年に西ドイツにあるダイムラー・ベンツのデザイン部門にマネージャーとして入社し、そこでメルセデス・ベンツ・Sクラスとメルセデス・ベンツ・Cクラスの外装デザインチームに参画した[4]。
1989年に富士重工業に移籍し、日本の自動車会社で初の日本人以外のチーフデザイナーとなった[3]。そこで2代目レガシィ(BG型)のデザインを担当した。
1992年にダイムラー・ベンツが日本に先行デザインスタジオを立ち上げたときにブーレイは再びダイムラー・ベンツに戻った。ブーレイは、日本のスタジオのジェネラル・マネージャーとして1997年の東京モーターショーに展示されたマイバッハ・コンセプトを手掛け、その後マイバッハ・57と62の量産準備にあたり ダイムラー・クライスラーのドイツの先行デザインスタジオにジェネラル・マネージャーとして戻った。
2001年5月にダイムラー・クライスラーが三菱自動車の経営を引き受けるにあたり、ブーレイは三菱自動車のデザイン部門のトップに任命された[5]。三菱自動車の財政的な苦境とダイムラー・クライスラーが筆頭株主であった期間が短かったために、彼の在任期間中に全く新しいモデルとして開発し市場に出せたのは三菱・グランディスただ1台だけであった。しかしながら精力的に働き、2001年の東京モーターショーに先立つ5ヶ月間で4台のコンセプトカーを生み出したおかげで、ブーレイは開発中の他の車種にも影響を与えることができた[6]。
2004年にダイムラー・クライスラーが三菱自動車との提携を解消したときに、ダイムラー・クライスラーとの契約期間が残っていたブーレイは以前の地位でドイツの先行デザインスタジオに帰任した。
ブーレイ顔 「ブーレイ顔」のランエボVIII
先述した三菱のコンセプトカーCZ2、CZ3 Tarmac、Space Liner
と SUPの全ては、グリル下側のカーブとバッジの大きさと形、ボンネットの峰に続く鋭い折り目で構成された共通の顔を持っていた。ブーレイは三菱自動車の力強いイメージを確立するためには、この統一された近似性が重要であると認識していた[7]。後にこの顔は、2003年にはオーストラリア市場でミツビシ・マグナのマイナーチェンジ(その後継モデルは三菱・380)と日本市場では軽自動車の三菱・iに採用された。後者2モデルが市場に導入されたときにはブーレイは三菱自動車を去った後だった。他にパリ・ダカールラリーマシンの2代目パジェロエボリューションも担当し、これ以降の多くの三菱車にもその影響は垣間見える。しかし、日本でのみ富士山型のフロントグリル(いわゆるブーレイ顔)は賛否両論を呼んだ。またランエボVIIIの場合は冷却性低下や空気抵抗の増大が問題視され、「性能一辺倒のランエボらしくない“退化”」と実用上の問題からブーレイ顔を快く思わない層もいる。後にグランディス、コルト、ランサーの日本仕様、及びランエボ([→\)についてはマイナーチェンジでブーレイ顔が廃止された。
代表作
初代 メルセデス・ベンツ・Cクラス(1993年)
2代目 スバル・レガシィ(1993年)
マイバッハ・57、62(2002年)
マイバッハ・62
監修作
三菱・コルト(2002年)
三菱・グランディス(2003年)
三菱・Space Liner(2001年)
三菱・SUP(2001年)
三菱・グランディス
三菱・ランサー(2003年)‘フェイスリフト’
三菱・マグナ(2003年)‘フェイスリフト’
三菱・ランサー
出典^ ⇒"Daimler considering an Advanced Design Center in Beijing", Automotive World, April 06, 2009
^ ⇒"Advanced design", Roger Boschman, The Standard, October 14, 2009
^ a b 小川文夫「FACES OF THIS MONTH」『NAVI』1989年11月号 VOL.6 NO.11、二玄社、 pp. 19。