オリガ・ダヴィドヴナ・カーメネワ(ロシア語: Ольга Давыдовна Каменева、1883年 - 1941年9月11日)は、ロシア帝国の革命家、ソビエト連邦の政治家である。共産党政治局員レフ・カーメネフの最初の妻であり、同じく政治局員レフ・トロツキーを兄に持つ。旧姓ブロンシテイン (Бронштейн)。
生涯(ウクライナ語版)に位置する)の、最寄りの郵便局さえ15マイル離れた小村で、豊かではあるが文盲のユダヤ人農家、ブロンシテイン家の娘として生まれる。ブロンシテイン家はユダヤ人ではあったがユダヤ教の信仰はなく、家庭で話されるのもイディッシュ語ではなくロシア語とウクライナ語だった[1]。
オリガ・ブロンシテインは1902年にロシア社会民主労働党に入党し[1]、直後に革命家のレフ・カーメネフと結婚した。1908年にレフが釈放されると、夫妻はロシアを離れジェノヴァ、次いでパリへ移り、ここでレフはウラジーミル・レーニンの旧知となった。夫妻はレーニンの下で雑誌編集を手伝い、夫妻が1914年1月にサンクトペテルブルクへ帰還すると、レフはボリシェヴィキの合法部門機関紙「プラウダ」と、ドゥーマにおけるボリシェヴィキの派閥を当面の間指導した。
十月革命後の1918年初頭、カーメネワはロシア・ソビエト共和国教育人民委員部(ロシア語版)劇場部門の責任者となった。そして、劇場演出家のフセヴォロド・メイエルホリドとともに、カーメネワはロシア演劇の急進的な改革を志向するようになった。だが、メイエルホリドが翌年5月に結核によって南方へ離れると、レーニンが劇場芸術に保守的であったため、人民委員部委員長アナトリー・ルナチャルスキーによってカーメネワは6月に職を解かれた[2]。
1919年10月にロシア共産党婦人局が設置されると、カーメネワは局監督部門のメンバーとなった[3]。翌年には、保健人民委員のニコライ・セマシコ(ロシア語版)が唱えた、避妊は「疑う余地なく有害」であり決して支持されるべきではない、との論を支持している[4]。1921年から1923年まで、対飢饉後遺症闘争中央委員会の指導者を務め[5]、ハーバート・フーヴァー政権下でソビエト連邦に対する援助を行っていたアメリカ救済管理(ロシア語版)に反対するプロパガンダを監督した。1923年から1925年にかけて、西欧に限定的な援助を短期間行った対外救済委員会の委員長を務め[6]、1926年から1928年までは対外文化交流協会会長を務めた[7]。この時にカーメネワはソ連を訪れたル・コルビュジェ[8]やセオドア・ドライサー[9]など多くの西欧の文化人と会見し、1927年3月から4月には、ソ連代表としてウィーンでベートーヴェン死去百周年記念祭に出席した[10][11]。