Orihuela
州 バレンシア州
県 アラカント県/アリカンテ県
面積365.44 km2
標高23.6m
人口83,417 人 (2014年[1])
人口密度228.26 人/km2
言語地域カスティーリャ語
自治体首長
(2015年
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯38度05分08秒 西経0度56分49秒 / 北緯38.08556度 西経0.94694度 / 38.08556; -0.94694座標: 北緯38度05分08秒 西経0度56分49秒 / 北緯38.08556度 西経0.94694度 / 38.08556; -0.94694
⇒オリウエラ公式サイト
オリウエラ(スペイン語:Orihuela)またはオリオーラ(バレンシア語:Oriola)は、スペイン・バレンシア州アリカンテ県のムニシピオ(基礎自治体)。公式名はスペイン語のOrihuela。ベガ・バハ・デル・セグラ地方の中心地である。市内をセグラ川が流れる。 ローマ時代の地名はアウラリオラ(Aurariola、黄金の都市)であった。一説ではギリシャ人が都市をつくったと信じられており、ここにはイベリア人が数多く定住し、カルタゴのハミルカル・バルカによって都市は大きくなったと言われているが、最古の地名はローマ帝国に与えられたものである。この名称は西ゴート王国時代にも維持され、アウラリオラという名は都市のみならず周囲の郡の名前にもなり、アウラリオラ総監はコメス・キウィタティス・アウラリオラム(Comes Civitatis Aurariolam)と称した。別の歴史文書によると、都市はオルセリス(Orcellis)とも呼ばれたという。 イスラム勢に征服された後、都市の名はアラビア語名のウリウーラ(Uryula)となった。キリスト教徒によるレコンキスタ後、この地に再植民したカタルーニャ人によってカタルーニャ語化されOriola[4]となり、これをカスティーリャ語化して、Orihuela(オリウエラ)となった。その時から、カタルーニャ語とカスティーリャ語の名称がどちらも側でも使用された。しかし、オリウエラはカスティーリャ語地域[5]にあるため、自治体公式名はカスティーリャ語名のオリウエラである。 現在のオリウエラの基礎は、ローマ属州カルタギネンシス
由来
歴史中世のオリウエラ
ユスティニアヌス帝時代、東ローマ帝国がアウラリオラ周辺を征服した。
625年、スウィンティラ王(en:Suntila)支配下の西ゴート王国が、ヒスパニアにあった東ローマ帝国領を占領した。都市はアウラリオラ州の中心地となり、州名と同じアウラリオラと呼ばれた。711年のイスラム勢の侵攻で西ゴート王権が倒れた後、領域を支配していた西ゴート貴族テウデミルがウマイヤ朝の統治を受け入れる協定を結び(713年4月)、近隣諸都市も統括した[6]。
825年、一帯は後ウマイヤ朝への従属を強め、首都はアウラリオラからムルシアへ移った。
1053年から1212年まで、ウリウーラはタイファのバレンシア王国とムルシア王国の間で領有が争われた。
13世紀半ば、カスティーリャ王子アルフォンソ(のちのアルフォンソ10世)がオリウエラを征服した。のち、アラゴン王ハイメ2世がオリウエラをムルシア王国全土と同時に征服した。1296年、オリウエラはアラゴンの構成王国バレンシア王国の一部となった。
1437年、オリウエラはアリカンテ県初の都市に昇格した。
スペイン継承戦争終結後、フェリペ5世はバレンシア王国の首都を一時的に、バレンシアからオリウエラへ移した。