オランダ黄金時代
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オランダ黄金時代(オランダおうごんじだい、オランダ語: Gouden Eeuw [???u?d?(n) ?e?u?])は、オランダの歴史において貿易科学軍事、オランダ芸術が世界中で最も賞賛された期間で、おおよそ17世紀にあたる。初めの半分の期間は、1648年に終結した八十年戦争により特徴付けられる。黄金時代は、17世紀の終わりまでネーデルラント連邦共和国で続いた平和な時代であった。

1590年代の神聖ローマ帝国の領土から、世界で最も優れた海運国、経済大国になるまでの間のオランダの変遷は、歴史家のK. W. Swartにより「オランダの奇跡」と呼ばれている[1]
黄金時代の要因レンブラント『夜警』 (1642年)

1568年、後にユトレヒト同盟 (オランダ語: Unie van Utrecht) に加盟することとなった7つの州が、フェリペ2世に対する反乱を開始し、オランダ独立戦争に発展していった。低地諸国がことごとく再占領される前、イングランドスペインの間に英西戦争が勃発したことで、スペイン軍の進軍が止まり、ブルッヘヘントといった貿易に重要な都市の支配に専念したが、当時間違いなく世界で最も重要な港であったアントウェルペンの支配権を失った。1585年8月17日、包囲戦の後、アントウェルペンが陥落(英語版)し、北ネーデルラントと南ネーデルラント(ほぼ現在のベルギー)の分割が確固たるものとなった。

ネーデルラント連邦共和国(ほぼ現在のオランダ)は、十二年の停戦まで戦った。停戦後も敵意が消えることは無かった。三十年戦争を終結させた1648年のヴェストファーレン条約により、ネーデルラント連邦共和国が公式に認められ、スペイン王国から独立した。
熟練工のネーデルラント連邦共和国への移住「魂の釣り」 (Zielenvisserij), 1614年、オランダ革命中のプロテスタントとカトリックの魂の闘争を風刺した寓意画、アドリアン・ファン・デ・フェンネ作 (アムステルダム国立美術館)

1585年のアントウェルペン陥落時の条件で、プロテスタントの住民は、(改宗することが出来ない場合は)都市やハプスブルク領を離れる前に、問題を処理するために4年間の猶予期間が与えられた。[2]他の場所でも同様の対処法がとられた。プロテスタントは特に熟練工や、ブルッヘ、ヘント、アントウェルペンなどの港町の金持ちの商人が多かった。1585年から1630年の間に、他のエリアに移動したカトリック教徒も多かったものの、カトリック教徒が他のエリアに移動するよりも多くのプロテスタントが北ネーデルラントに移動した。プロテスタントの多くは北に移りアムステルダムに住み着き、小さな港であったアムステルダムは、1630年までに世界で最も重要な港町、商業の中心となっていた。

南ネーデルラントから大量のネイティブ住民が移動したのに加えて、特にポルトガルスペインからのセファルディム、後にはフランスからのユグノーなど宗教的な迫害から逃れてきたネイティブではない多くの避難民の流入があった。ピルグリム・ファーザーズも、新世界への旅立ち前に、滞在していた。
安価なエネルギー源手漕ぎボートの漁師がいて奥に風車のある川の風景 1679年

この時期に、オランダにおいて貿易、産業、芸術、科学が花開いたことには、多くの理由がある。必要条件として、風車や泥炭から安価なエネルギーが得られたことで、運河によって簡単に都市に輸送できたことである。製材所の発明により[3]世界中の貿易で使用される巨大船や、共和国の経済的利益を守る軍事的な巨大艦の建造が可能となった。
企業金融の誕生とその富

17世紀、有能な船員や優れた地図職人が伝統的に多かったオランダが、極東との貿易を開始した。彼らは徐々に世界の貿易において、かつてポルトガルスペインが独占していた支配的なポジションを得るようになった。[4]

1602年、オランダ東インド会社 (Verenigde Oostindische Compagnie, VOC) が設立された。世界初の多国籍企業で、最初の近代的な証券取引場であるアムステルダム証券取引所を設立した株式を財源としていた。オランダ東インド会社により、アジア貿易をオランダが独占することとなり、この状態は2世紀にわたって続くこととなった。同社は17世紀の世界最大の営利会社となった。香辛料が大量に輸入され、彼らの努力、(航海の)危険性に加え、おそらく満たされることのない程の需要により、巨額の利益をもたらした。これは今日オランダの言葉で「peperduur (香辛料と同じくらい高価である)」として知られており、この言葉は、当時の香辛料の価格を例示して、ものすごく高価なものを意味している。この地域内での貿易の成長に融資をするために、1609年にアムステルダム銀行が設立され、この銀行は最初の中央銀行ではないものの、それの前身にあたる。[5]
ヨーロッパの大国武器商人のトリップ兄弟がアムステルダムに「Trippenhuis」を建てた。


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