オランダ黄金時代の絵画
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真珠の耳飾りの少女ヨハネス・フェルメール (1665-1666年頃) マウリッツハイス美術館

本項目では、オランダが世界的な影響力を持っていた時期、すなわちネーデルラント諸州の独立戦争である八十年戦争(1568年から1648年)の終わりから17世紀(オランダ黄金時代[注釈 1]を中心として、オランダ人あるいはオランダで活躍した外国人の画家たちによって描かれたオランダ黄金時代の絵画(オランダおうごんじだいのかいが)について解説する[注釈 2]。八十年戦争でスペインからの独立を宣言したネーデルラント連邦共和国は当時のヨーロッパで最も富裕な国で、貿易、学問、芸術の最先端国家だった。連邦共和国を構成した北部の州は、南部の州に比べると芸術分野で優っているとはいえなかった。しかし戦争による混乱と住民の大規模な移動はそれまでの君主制やカトリック的伝統の破壊につながり、オランダ芸術はこれらの大きな変革の結果、素晴らしい成果となって結実した。

オランダ黄金時代の絵画はヨーロッパ全体でみるとバロック絵画の時代と合致し、なかにはバロック絵画の特徴がみられるものもある。しかし、バロック絵画の典型的な特徴である対象の理想化や壮麗な画面構成はほとんどなく、隣国であるフランドルのバロック絵画の影響も見られない。この時代に制作された有名なオランダ絵画の多くは、伝統的な初期フランドル派から引き継いだ細部にわたる写実主義の影響を強く受けている。

この時代の絵画を最もよく特徴づけるのは、それまでになかったジャンルの絵画が制作されたことであり、画家の多くがさまざまなジャンルに特化して絵画を描いた。このようなジャンルの専門化は1620年代後半に始まっており、1672年の仏蘭戦争までが、オランダ黄金時代絵画の最盛期となった。
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ジプシー女フランス・ハルス (1625-1630年頃) ルーブル美術館 板絵(油彩)

当時のヨーロッパ絵画の特徴といえるのが、初期のヨーロッパ絵画と比べて宗教を扱った絵画が少ないことである。オランダのカルヴァン主義教理は教会に宗教画を飾ることを禁じており、聖書を題材に描かれた絵画は個人宅では受け入れられていたとはいえ、制作されることはほとんどなかった。宗教画と同じく伝統的なジャンルである歴史画肖像画は制作されていたが、その他のジャンルの絵画が多く描かれている。農民の暮らしを描いた風俗画風景画、都市景観画、動物が描かれた風景画、海景画、植物画、静物画などさまざまな専門分野に特化した絵画が制作された。これらのさまざまな絵画ジャンルの発展には、17世紀のオランダ人画家たちが決定的な影響をおよぼしている。

絵画においても、歴史画を最上位に、静物画を最下位に位置づける「ジャンルのヒエラルキー(Hierarchy of genres)」は広く受け入れられており、多くの画家が歴史画を制作している。しかしながら歴史画は、たとえレンブラントの作品であったとしても売却が困難で、ほとんどの画家は「ヒエラルキー」としては下位ではあるものの、売却が容易な肖像画や風俗画を描くことを強いられた。「ジャンルのヒエラルキー」による絵画分野の順位付けは以下のようなものである。

歴史画(宗教的主題も含む)

肖像画

風俗画、日常生活を描いた絵画

風景画、都市景観画(オランダ黄金時代の画家サミュエル・ファン・ホーホストラーテンは、風景画家のことを「芸術家を軍隊とするならば、単なる一兵卒に過ぎない」としている[2]

静物画
若い牡牛パウルス・ポッテル (1647年) マウリッツハイス美術館「ジャンルのヒエラルキー」を無視した珍しい動物画

オランダ人画家たちは「下位」に位置づけられるジャンルの作品を多く描いたが、「ジャンルのヒエラルキー」の概念を無視していたわけではない。描かれた絵画のほとんどは比較的小さなもので、複数の人物を描いた肖像画だけが一般的な大きさの作品だった。壁に直接描く壁画は辛うじて描かれていたとはいえ、公共の場所の壁を絵画で装飾する必要があるときは、ちょうどいい大きさのキャンバスが使用されるのが普通だった。硬く精密な下地を求めて、新しい支持体だったキャンバスではなく旧来からの木板を使用した板絵を制作する画家も多かった。一方オランダ以外の北ヨーロッパの画家たちは、板絵を描くことはまれになっていき、銅版画に使用したあとの銅版を支持体とする画家も出てきた。

オランダ黄金時代に描かれた絵画のなかには、18世紀から19世紀にかけて再利用され上から新しい絵を重ね塗りされたものもある。これは貧しい画家にとって、新品のキャンバスや額装などよりも古い絵画のほうが安価に入手できたためだった。絵画とは逆にこの時代にオランダで制作された彫刻作品はほとんどない。葬礼芸術としての墓標にわずかに見られる程度で、公共建築物や個人宅の飾りは銀製品、陶製品などに置き換えられていく。装飾に使用されたデルフト近辺で製作されたデルフト陶器のタイルは非常に安価で一般的なものとなっていた。銀細工を例外として、当時のオランダ人芸術家たちの関心と努力はもっぱら絵画・版画分野に向けられていたのである。
背景『居酒屋で喫煙とバックギャモンを楽しむ紳士達』ディルク・ハルス (1627年)

当時大量に制作された絵画の大規模な即売会の記録を外国人たちが残しており、それによると130万枚以上の絵画が1640年から1660年の20年間にオランダだけで制作されている[注釈 3]。一握りの著名で流行の最先端を行った画家の作品を除いて、供給過多のため絵画の価格は低かったと考えられる。現在では名匠とされているフェルメールフランス・ハルス、晩年のレンブラントも、当時はさほどではない、あるいは流行に外れた画家として経済的問題を抱え、貧困のうちに死去している。多くの画家が副業をもっており、芸術家としての生計を完全に諦めた画家もいた[注釈 4]。とくに1672年のフランス侵略は絵画市場に深刻な不況をもたらし、絵画の価格が以前の水準に戻ることはなかった[3]ハールレム聖ルカ組合』ヤン・デ・ブライ (1675年) アムステルダム国立美術館 ヤン自身が左から二人目、花の画家として知られる弟のDirck de Brayが後列右端に描かれている

オランダ人画家の絵画技術は非常に高く、中世からの徒弟制度が依然として続いていた。一般的なオランダの絵画工房はフランドルやイタリアに比べると小規模で、同時に1人か2人の弟子しかとらず、徒弟数はギルドの規定で制限された。宗教改革後にカトリック教会の影響力が低下し、それまで教会の祭壇画や教会関係者からの注文を受けていた各地の聖ルカ組合の力も衰える。しかしギルドそのものは画家にとって必要で、教会に代わる新しい依頼主をその都市の有力者に求めた。こうして世俗的ギルドはこの時代に確立された。アムステルダムは1579年、ハールレムは1590年、そしてゴーダロッテルダムユトレヒト、デルフトでは1609年から1611年にかけて成立した[4]


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