オランダ海兵隊
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海兵隊(オランダ語:Korps Mariniers)は、オランダ海軍が整備・編制している海兵隊水陸両用戦力の緊急展開部隊として世界各地に48時間以内に即応展開できるようになっている。

オランダ海兵隊のモットーは「世界が広がる限り(Qua Patet Orbis)」である。
歴史ロッテルダムにある海兵隊員の銅像

オランダ海兵隊は、ネーデルラント連邦共和国の非公式な指導者であったヨハン・デ・ウィットミヒール・デ・ロイテル提督により第二次英蘭戦争中の1665年12月10日に海兵連隊として創設された。指揮官はウィレム・ジョセフ・ファン・ゲント(en:Willem Joseph van Ghent)であった。オランダは、第一次英蘭戦争では一般兵士を船に乗せ、海上戦闘に投入して成功していた。1537年のスペイン海兵隊、1610年のポルトガル海兵隊、1622年のフランス海兵隊、1664年のイギリス海兵隊に続く5番目の海兵隊である。イギリスと同様にオランダも海兵隊が解隊された期間があった。オランダ自体が1810年から1813年までフランスの支配下に置かれていた。海兵隊の再編はバタヴィア共和国施政下の1801年3月20日に提案され、ルイ・ボナパルト統治下の1806年8月14日に王立海兵擲弾兵隊(Korps Koninklijke Grenadiers van de Marine)として編成される。現代のオランダ海兵隊は1814年から始まり、1817年に現在の名称になっている。

提督となったファン・ゲントが率いる戦隊により1667年6月10日から14日にかけて行われたメドウェイ川襲撃においては、オランダ海兵隊は新しく連隊長となったイギリス人のトーマス・ドルマン(Thomas Dolman)指揮の下で卓越した役割を果たし、ケントにある町の名前に因んだ「チャタム」のバトルオナーが与えられた。これは、外国軍部隊が獲得したイギリス国内の地名に由来する数少ない名誉の一つである。7月、ハリッジ近傍のランドガード砦を攻撃、上陸後は傭兵1,500人で攻撃を実施するも砦の守備隊によって撃退された。

海兵隊は第二次英蘭戦争第三次英蘭戦争でも戦った。ソールベイの海戦後の1672年6月29日に海兵隊の三分の二を艦隊から撤収させ、イギリス軍の侵入に備えて傭兵軍を増強するための旅団が編成された。これが1673年8月21日のテセル島の海戦で英仏連合軍を撃破し、イギリス軍の侵攻を阻止するため適時艦船に復帰する。ゲルロフ・ファン・イッセルメイデン(Gerolf van Isselmuyden)指揮で1674年にフランスに対してスヌッフ(Seneffe)の陸上戦でも活躍した。

オランダによるアメリカ植民地独立の支持は第四次英蘭戦争につながった。そしてドッガー・バンク海戦が生起する。1704年にオランダ海兵隊はイギリス海兵隊と協同でヘッセン=ダルムシュタット公ジョージ指揮下(en:Prince George of Hesse-Darmstadt)のジブラルタルを占領し、しばらくの間巧妙に防御された。その後両者は1816年のアルジェ砲撃でも協同作戦を実施している。

オランダ海兵隊はオランダ領東インドでも活躍していた。オランダは1850年代から第一次世界大戦前までインドネシア全域に及ぶ植民地獲得には抑制的であった。オランダ海兵隊の戦闘名誉については1873年から1913年まで続いたアチェ戦争(en:Aceh War)とバリ島征服から始まっている。

第二次世界大戦ではオランダ領東インドへ向けて出航準備中であったロッテルダムにいた海兵隊部隊はマース川全域の橋梁防御に転用された。ここでは一般のドイツ軍歩兵部隊のみならず都市中央部に対する降下猟兵による強襲にも備えていた。ドイツ軍のロッテルダム爆撃により膠着状態は崩壊した。カリブ海アルバ沖合ではドイツ人船長が座乗する商船「アンティラ(Antilla)」がUボートの補給船として機能していたため、この脅威を排除するため海兵隊は攻撃をほのめかし降伏を受け入れるように交渉し、24時間の猶予後に接収作業を開始する。降伏受け入れ時、ドイツ人船長は完全武装の部隊が乗り込んでくると想定していたが、少数の制服海兵隊員だけが現れたのを見て驚いた。船長は部下に対し海兵隊員の勇気を称えて敬意を表するよう命じ、彼らに「黒い悪魔(Zwarte duivels)」の評を与えた。

いくつかの海兵隊部隊はドイツと戦うためにイレーネ王女旅団(en:Royal Netherlands Motorized Infantry Brigade)に参加した。彼らは1944年秋にオランダのティルブルフ近郊での戦闘で有名になった。1943年始め、アメリカ海兵隊は新編海兵旅団に装備を与え訓練を施した。ノースカロライナ州のキャンプ・ルジューヌ海兵隊基地(en:Marine Corps Base Camp Lejeune)とキャンプ・デービス海兵隊遠隔地訓練場(en:Marine Corps Outlying Field Camp Davis)でオランダ領東インドを占領している日本に対する反攻のため陸海空統合の上陸戦に備えていた。このような反攻上陸を実施する前に日本は降伏したが、1945年にノースカロライナ州で完全状態にあった海兵旅団は6つの輸送機材を残置して植民地独立戦争でインドネシア人たちと戦うことになる。これらはA師団の一部であり、海兵隊士官の指揮下に置かれていたが1949年に解隊された。

1959年、アメリカの水中爆破部隊(en:Underwater Demolition Team)を参考に水陸両用偵察小隊(Amfibisch Verkennings Peloton)が創設される。同部隊は沿岸偵察、破壊工作に特化した小規模な特殊部隊で、戦時にイギリス軍SBSの一部として共同作戦を行う体勢であることからオランダSBS第7小隊(7NL Special Boat Section)とも呼ばれる。

インドネシア独立後、イリアンジャヤの帰属問題は棚上げにされたまま同地にオランダ海兵隊は駐留を続けていたが、1962年にインドネシア軍の侵攻の末に同地は併合された。

1977年6月11日、ドレンテ州のデ・プント(en:De Punt)で南マルク共和国(en:Republic of South Maluku)の過激派6人は5月23日に近隣の住人を人質に列車をハイジャックした。事態解決のため強行手段に出た治安当局はオランダ空軍F-104 スターファイター戦闘機6機を強襲前の牽制として低空飛行で爆音を響かせハイジャック犯の気を引き、海兵隊介入部隊(en:Unit Interventie Mariniers)が列車に突入し犯人6人を死亡させるも、人質2人も犠牲となったが事件は解決した(en:1977 Dutch school hostage crisisおよびen:1977 Dutch train hostage crisisを参照)。この功績により海兵隊介入部隊はオランダ政府の有力な対テロ特殊部隊であると証明された。

冷戦時代には北大西洋条約機構の枠組みのもとで、1973年にイギリス海軍海兵隊第3コマンドー海兵旅団とオランダ海兵隊作戦部隊グループ(GOUM)で構成される英蘭水陸両用部隊(UKNLAF)が編組された[1]


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