ドイツの政治家オラフ・ショルツOlaf Scholz
(2023年)
生年月日 (1958-06-14) 1958年6月14日(65歳)
出生地 西ドイツ
ニーダーザクセン州
オスナブリュック
出身校ハンブルク大学
所属政党ドイツ社会民主党
配偶者ブリッタ・エルンスト
オラフ・ショルツ(ドイツ語: Olaf Scholz、1958年6月14日 - )は、ドイツの政治家。同国第9代連邦首相(在任: 2021年12月8日 - )。ドイツ社会民主党所属。
労働・社会大臣、ハンブルク第1市長、副首相、財務大臣を歴任した。 オスナブリュックで生まれる。祖父は鉄道職員で、両親は繊維産業で働いていた。3人兄弟の長男であり、大学病院で麻酔科医をする長弟のイェンスと次弟のインゴがいる[1]。ハンブルク市内北東部のラールシュテット 1975年にドイツ社会民主党(SPD)に入党。SPDの青年組織であるユーゾーで活動し、1982年から1988年まで連邦副代表を務めた。ユーゾー内では、国家独占資本主義の理論を支持する左派グループにいた。また、1987年から1989年までは国際社会主義青年同盟副総裁を兼任した[4]。1984年のユーゾー連邦大会にて ショルツは当時のNATOによる西ヨーロッパへの中距離ミサイル配備計画に強く反対していた。社会主義政治経済学に関する雑誌記事には「侵略的な帝国主義のNATO」と書き、西ドイツは「ヨーロッパの大企業の拠点」であるとの批判を展開した[5]。1983年から1988年の間には、自由ドイツ青年団(FDJ)およびドイツ社会主義統一党(SED)との会談のために東ドイツを9回訪問。1984年1月に東ドイツを訪問し際には、ユーゾーの代表団として東ベルリンとポツダムに3日間滞在し、SEDの中央委員会政治局員であったエゴン・クレンツと会談をしている[6][7]。 1994年から2000年までハンブルク=アルトナ地区の党代表を務めた[8]。1998年の連邦議会選に立候補し、ハンブルク=アルトナ選挙区
来歴
生い立ち
政治活動
2002年の連邦議会選で連邦議会議員に返り咲く。2002年の党大会で91.3%の票を獲得してSPD幹事長に選出された。2003年の党大会でも幹事長に再選したが、その際の得票率はわずか52.6%であった。2004年3月のゲアハルト・シュレーダー連邦首相のSPD党首辞任とともに幹事長の職を退いた[11]。ショルツは党内ではシュレーダーと親密な関係にある構造改革派とみなされていたが、2007年の入閣後はこの評価は変わっている。2005年10月、連邦議会党議員団代表代行に選出された。 2007年11月、フランツ・ミュンテフェーリング労働相(副首相兼任)の辞任に伴い、その後任の労働・社会大臣として第1次メルケル内閣(CDU/CSUとSPDとの大連立)に入閣した[12]。2009年ドイツ連邦議会選挙の結果連立組み替えが起きたため、大臣職を離れた。同年11月よりSPDハンブルク支部代表に就任し、また党大会で85.7%の票を獲得して副党首に選出された[13]。 2011年2月20日に行われたハンブルク市議会議員選挙で、SPDの得票率は48.3%に上り121議席中62議席と単独過半数を獲得する勝利をおさめた。この結果、SPDは10年ぶりに政権を奪回し、ショルツがハンブルク市長に就任した[14][15]。
初入閣
ハンブルク市長ハンブルク市長に就任し、市議会の市政府側の席に座る