オラフ・ショルツ
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 ドイツ政治家オラフ・ショルツOlaf Scholz
(2023年)
生年月日 (1958-06-14) 1958年6月14日(65歳)
出生地 西ドイツ
ニーダーザクセン州
オスナブリュック
出身校ハンブルク大学
所属政党ドイツ社会民主党
配偶者ブリッタ・エルンスト(ドイツ語版)
サイン
公式サイトolaf-scholz.spd.de
ドイツ連邦共和国
第9代 連邦首相
内閣ショルツ内閣
在任期間2021年12月8日 - 現職
連邦大統領フランク=ヴァルター・シュタインマイヤー
副首相
内閣第4次メルケル内閣
在任期間2018年3月14日 - 2021年12月8日
財務大臣
内閣第4次メルケル内閣
在任期間2018年3月14日 - 2021年12月8日
ハンブルク市長
在任期間2011年3月7日 - 2018年3月13日
連邦議会議員
選挙区(ハンブルク=アルトナ選挙区→)
ポツダム=ミッテルマルクII - テルトウ=フレーミングII選挙区
当選回数5回
在任期間1998年10月26日 - 2001年6月6日
2002年10月17日 - 2011年3月10日
2021年10月26日 - 現職
その他の職歴
労働・社会大臣
2007年11月21日 - 2009年10月27日
ドイツ社会民主党党首(臨時代理党首)
2018年2月13日 - 2018年4月22日
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オラフ・ショルツ(ドイツ語: Olaf Scholz、1958年6月14日 - )は、ドイツ政治家。同国第9代連邦首相(在任: 2021年12月8日 - )。ドイツ社会民主党所属。

労働・社会大臣、ハンブルク第1市長、副首相、財務大臣を歴任した。
来歴
生い立ち

オスナブリュックで生まれる。祖父は鉄道職員で、両親は繊維産業で働いていた。3人兄弟の長男であり、大学病院で麻酔科医をする長弟のイェンスと次弟のインゴがいる[1]。ハンブルク市内北東部のラールシュテット(ドイツ語版)にあるギムナジウムに通い、アビトゥーアを取得。1978年にハンブルク大学に入学して法学を学んだ[2]。1985年に弁護士資格を取得し、法律事務所を立ち上げた。労働者の雇用問題に関する弁護活動に従事した[3]ハンブルク市議会議員を務める夫人との間には子はないが児童保護活動に参加している。
政治活動

1975年にドイツ社会民主党(SPD)に入党。SPDの青年組織であるユーゾーで活動し、1982年から1988年まで連邦副代表を務めた。ユーゾー内では、国家独占資本主義の理論を支持する左派グループにいた。また、1987年から1989年までは国際社会主義青年同盟副総裁を兼任した[4]1984年のユーゾー連邦大会にて

ショルツは当時のNATOによる西ヨーロッパへの中距離ミサイル配備計画に強く反対していた。社会主義政治経済学に関する雑誌記事には「侵略的な帝国主義のNATO」と書き、西ドイツは「ヨーロッパの大企業の拠点」であるとの批判を展開した[5]。1983年から1988年の間には、自由ドイツ青年団(FDJ)およびドイツ社会主義統一党(SED)との会談のために東ドイツを9回訪問。1984年1月に東ドイツを訪問し際には、ユーゾーの代表団として東ベルリンポツダムに3日間滞在し、SEDの中央委員会政治局員であったエゴン・クレンツと会談をしている[6][7]

1994年から2000年までハンブルク=アルトナ地区の党代表を務めた[8]1998年の連邦議会選に立候補し、ハンブルク=アルトナ選挙区(ドイツ語版)で当選をして連邦議会議員となった[9]。2000年から2004年まで、SPDのハンブルク支部代表。2001年5月にハンブルク市の内務担当参事(他州でいうところの内務相)であったハルトムート・ヴロックラーゲ(ドイツ語版)が辞任したことに伴い、オルトヴィン・ルンデ(ドイツ語版)市長に招聘され、連邦議会議員を辞して後任の内務担当参事に就任した。しかし同年の市議会選挙でSPDが敗れたため、同市長の退陣に伴いショルツも10月に退任した[10]。2001年に党の連邦代表執行部に選出されている。

2002年の連邦議会選で連邦議会議員に返り咲く。2002年の党大会で91.3%の票を獲得してSPD幹事長に選出された。2003年の党大会でも幹事長に再選したが、その際の得票率はわずか52.6%であった。2004年3月のゲアハルト・シュレーダー連邦首相のSPD党首辞任とともに幹事長の職を退いた[11]。ショルツは党内ではシュレーダーと親密な関係にある構造改革派とみなされていたが、2007年の入閣後はこの評価は変わっている。2005年10月、連邦議会党議員団代表代行に選出された。
初入閣

2007年11月、フランツ・ミュンテフェーリング労働相(副首相兼任)の辞任に伴い、その後任の労働・社会大臣として第1次メルケル内閣(CDU/CSUとSPDとの大連立)に入閣した[12]2009年ドイツ連邦議会選挙の結果連立組み替えが起きたため、大臣職を離れた。同年11月よりSPDハンブルク支部代表に就任し、また党大会で85.7%の票を獲得して副党首に選出された[13]
ハンブルク市長ハンブルク市長に就任し、市議会の市政府側の席に座る

2011年2月20日に行われたハンブルク市議会議員選挙で、SPDの得票率は48.3%に上り121議席中62議席と単独過半数を獲得する勝利をおさめた。この結果、SPDは10年ぶりに政権を奪回し、ショルツがハンブルク市長に就任した[14][15]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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