オメガトライブ
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この項目では、日本の音楽グループについて説明しています。漫画については「オメガトライブ (漫画)」をご覧ください。
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オメガトライブ(OMEGA TRIBE)は、1980年代前半から1990年代前半にかけて日本で活動したバンドであり、プロデューサー藤田浩一の総合指揮の下、作曲家林哲司並びに和泉常寛、アレンジャー新川博らの制作陣を中心としたプロジェクトの総称。

ボーカル杉山清貴カルロス・トシキ新井正人と変遷した。

「オメガトライブ」とは実質的にプロデューサー「藤田浩一」そのものであり、その指揮の下、制作陣から生み出された楽曲を藤田浩一が最終カスタマイズし、杉山清貴カルロス・トシキ新井正人3名のボーカルが歌う方式でCDが作られている。
概要

夏・海・リゾートをテーマとした彼らの作品の数々は、『サザンオールスターズ』や『TUBE[注 1]と共に日本のサマー・ソングのヒット曲として知られている。

杉山清貴をボーカルとするアマチュアバンド「きゅうてぃぱんちょす」は1980年「第19回ヤマハポピュラーソングコンテスト」入賞後、メジャーデビューのオファーを受けながらもオリジナル楽曲の完成度に納得できず、誘いを断っていた。プロデューサー・藤田浩一はポプコン入賞以降同バンドに注目しており、デビュー条件としてプロによる提供楽曲の演奏を提示。バンドはこれを受け、「杉山清貴&オメガトライブ」と名を変え、1983年4月にレコードデビューした[1]

藤田は、1980年代に角松敏生やオメガトライブ、菊池桃子を擁した芸能事務所トライアングル・プロダクションのオーナー。藤田がタッチする作業は作詞家・作曲家、アレンジャーとのプリプロダクションからレコーディング・スタジオでのミュージシャンへの指示やエンジニアへの注文、レコード・ジャケットの決定からマーケット戦略まで多岐に亘っており、全ての最終決定権は藤田にあった[注 2][注 3]

バンド名称の名付け親はDJのカマサミ・コング

メンバーは候補に挙がった中の「タイクス」という名前を気に入っていたが、藤田が「オメガトライブ」に決めた。「オメガトライブ」とは、「オメガ」(Ω, ω)=ギリシャアルファベットの最後の文字(「最後」を意味する)と、「トライブ」=種族を合わせ「最後の種族」という意味がある[注 4]。詳細は後述。
「オメガトライブ」というプロジェクト

杉山清貴&オメガトライブのメンバーは、後日「”オメガトライブ”は、バンドでは無く、プロジェクトであり、自分達はその一員であった。」と答えている[2][3][4]

藤田が考えるオメガトライブというプロジェクトを、林哲司主導の下で楽曲制作を行う。またレコーディングではプロデューサーである藤田浩一の製作に対する要求が高い為に[4]、バックコーラスも含めプロのスタジオ・ミュージシャンが演奏したため、ボーカルの杉山以外のメンバーはレコーディングに関わっておらず、アマチュアバンド「きゅうてぃぱんちょす」のメンバーは、バンド名や制作した楽曲を全て封印し[注 5]、「オメガトライブ」を演じるバンドになった[3]

バンドは名付けられ、オリジナル作品は制作出来ず[3]、作品は準備され[注 6]、演奏はスタジオ・ミュージシャンの演奏をなぞる[注 7]。ビジュアル・イメージは絶えず「海」「夏」「リゾート」がつきまとう[5]

そのため、メンバーは「楽曲を与えてもらって、それを売らなきゃいけない使命感が物凄くあって、その使命感の中で疲れ果てて」しまい、また「いつか売れたら、自分たちで曲を作り、演奏もしたい。そこで挫折したら自分たちの責任だし納得もする。ところが、売れたらますますその願いは叶わず、いつしか与えられるだけで、なにも制作に関与しない[4]」状況が続いた。またデビュー後の楽曲は他人から作ってもらっていたため、俯瞰の目で自分たちを見ながら、曲が売れても他人事のような感覚だった為、『このまま俺たちやってて、どうするんだろう?』思い、「自分たちで楽曲作ってないし、アルバムではちょっと作ってるが、メインではないし。楽曲から見放されたら自分たちに何にも残らないなって思った」時に、メンバー同士でツアー中の飲みの席で『じゃあ今売れてる内に解散しようぜ!』と杉山より解散を切り出し、「年内(1985年)一杯で解散すること」をメンバーだけで決意、その意思をプロデューサーかつ社長である藤田に報告、吉田が一足先に脱退後、1985年12月24日で解散となった[6][7]。解散を切り出したのは杉山、解散に賛成は廣石と大島と吉田、反対は高島と西原であったが、最終的に満場一致での解散となった。その後、杉山はソロへ、高島と西原の活動継続の意向を尊重した藤田の意向があり、新たに加入したカルロス・トシキ、黒川照家と共に「1986オメガトライブ」の一員となった。
杉山清貴&オメガトライブ

杉山清貴&オメガトライブ
出身地
日本
ジャンルJ-POP
AOR
湘南サウンド
シティポップ
活動期間1980年 - 1985年
2004年
2018年 -
レーベルVAP
1983年 - 1985年
キングレコード
2019年 -)

メンバー杉山清貴Vocal
高島信二Guitar
西原俊次Keyboards
廣石恵一Drums
大島孝夫(Bass
吉田健二(Guitar

メンバー

プロフィール担当備考
杉山清貴
(すぎやま きよたか) (1959-07-17) 1959年7月17日(64歳)
神奈川県横浜市磯子区出身
AB型ボーカル
高島信二
(たかしま しんじ) (1960-10-23) 1960年10月23日(63歳)
神奈川県横浜市出身
O型ギター
西原俊次
(にしはら としつぐ) (1960-04-26) 1960年4月26日(64歳)
東京都品川区出身
AB型キーボード
廣石恵一
(ひろいし けいいち) (1960-11-15) 1960年11月15日(63歳)
神奈川県横浜市出身
A型ドラムスクレイジーケンバンドのメンバーとしても活躍していた(2023年に脱退)。杉山と同様に、解散後も音楽活動を継続している。
大島孝夫
(おおしま たかお) (1960-12-08) 1960年12月8日(63歳)
A型ベース解散後はバンドNO-SIDEに参加し、アルバム1枚発表するも、その後脱退。脱退後は音楽業界から離れたが[注 8]、2004年の再結成後はオメガトライブの活動の他に、吉田のバンドへの参加等、散発的に音楽活動を継続中。
吉田健二
(よしだ けんじ) (1960-08-10) 1960年8月10日(63歳)
O型ギター解散前である1985年4月に脱退、2004年の再結成ライブより再合流。別名:吉田健太。愛称は「ケンタ」。現在は川瀬ゆう子と音楽ユニット「NightOwl」を結成し、活動中。

※ 大阪哲也(キーボード)…オリジナルメンバーではないが、ライブCD『The open air live "High & High 2018" Complete』より、オリジナルメンバーと共にメインビジュアルに登場している。
略歴

1978年12月結成。この時期は現在芸術音楽の作曲家である千住明や後にSugarを結成する長沢久美子(クミ)と毛利公子(モーリ)も在籍していた。

1980年5月に前身となるバンド「きゅうてぃぱんちょす」にて第19回ヤマハポピュラーソングコンテストに入賞。同年10月第20回ポプコンでは落選するが、プロデューサー藤田浩一の目に止まることとなった。キーボードの千住はプロへ直結するポプコン優勝を逃したことから、在籍していた慶応義塾大学から東京芸術大学への受験により音楽家になることを希望し、グループを離れる[8]。キーボード担当は西原俊次が新たに加わり、グループとしてプロデビューを目指した。

1983年4月、藤田の第1弾プロジェクト『杉山清貴&オメガトライブ』としてレコードデビューする。

なお、「オメガトライブ」という名前は「バンド名の候補でも一番下にあった名前」であった(後に杉山自身が公言している)。1985年12月、プロデューサーとメンバーとの方向性の違いにより、横浜文化体育館のライブを最後に解散。

代表曲としては、1983年4月「SUMMER SUSPICION」、1984年1月「君のハートはマリンブルー」、1985年3月「ふたりの夏物語 -NEVER ENDING SUMMER-」(最大のヒット曲)など。

2004年2月、杉山の呼びかけにより、杉山清貴&オメガトライブを再結成し(前座:きゅうてぃぱんちょす)、2月11日NHKホール、2月14日愛知厚生年金会館、2月15日大阪厚生年金会館に於いて、『First Finale2 ?オメガとライブ?』と題したコンサートを行う[9]

2018年5月5日、日比谷野外大音楽堂での杉山の野外ライブ「The open air live High & High 2018」を、デビュー35周年記念として杉山清貴&オメガトライブ名義にて行なう[10]

2019年5月5日、前年同様日比谷野外大音楽堂でライブを開催[11]

2019年には12会場13公演に及ぶ全国ツアーを開催。

2024年に結成40周年を迎えるに当たり、2021年9月29日発売の『AQUA CITY REMIX』を皮切りに、『40周年シリーズ』の企画をスタート[12]。2023年までに発売されるCDに付随している帯を集めると、40周年を迎える2023年に行われる企画に参加出来るようになっている[13]

2024年3月9日よりライブツアー「杉?清貴&オメガトライブ?FIRST FINALE TOUR 2024?“LIVE EMOTION”」を開催した。

2024年5月9日に40年ぶりに「杉?清貴&オメガトライブ」名義でテレビ出演することが発表された[14]

2004年以降、再形成ライブや、何らかの形でのメンバーの共演を行なったりはしているが、「オメガトライブ」名義での新作は製作しないことを公言している。杉山は「オメガトライブというのは、2年8ヶ月の中で作品は完結しており、藤田(プロデューサー)が作った世界なので、藤田がいなければオメガトライブは引き継げない。林哲司や自分達が作ったら、それはオメガトライブじゃなくなる。プロデューサーの思いがすべて集結したものなので、藤田が亡くなってしまった今は、新作はありえない」とインタビューで答えている[15]。こうした経緯もあり、デビュー前にヤマハポピュラーソングコンテストで披露し、再結成時に正式に新曲として録音した『乗り遅れた747』は前身バンド名の『きゅうてぃぱんちょす』名義を使用した。
主な制作陣

プロデューサー:
藤田浩一(元「アウト・キャスト」のギタリスト・トライアングル・プロダクションのオーナー)

作詞家:康珍化秋元康

作曲家:林哲司

作品
シングル

#発売日タイトルカップリング最高順位備考
11983年4月21日
SUMMER SUSPICION渚のSea-Dog9位第12回東京音楽祭で披露、TBS賞を受賞
21983年10月21日ASPHALT LADYA.D. 195936位
31984年1月21日君のハートはマリンブルー愛を巻き戻して12位TBS系ドラマ『年ごろ家族』主題歌
41984年10月21日RIVERSIDE HOTELJOANNA21位
51985年3月6日ふたりの夏物語 NEVER ENDING SUMMERFAREWELL CALL5位JALPAK'85CM曲


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