オムロンピンディーズ
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オムロンピンディーズ

基本情報
正式名オムロン ハンドボール部
愛称ピンディーズ
略称オムロン
運営母体
オムロン
創設1974年
スローガン更に進化し続けるオムロン (The Evolving OMRON.)
マスコットピンディー
所属リーグ
日本ハンドボールリーグ
歴代チーム名


立石電機ハンドボール部 (1974年 - 1985年)

立石電機山鹿ハンドボール部 (1985年 - 1990年)

オムロン ハンドボール部 (1990年 - )

本拠地
本拠地熊本県山鹿市
0山鹿市総合体育館
熊本県人吉市
0人吉スポーツパレス
熊本県八代市
0八代市総合体育館
練習会場熊本県山鹿市
0オムロン鹿陽センター
成績
2019-205位
リーグ優勝17回 (1976年・1980年・1981年・1982年・1983年・1986年・1992年・1993年・1995年・1997年・2005年・2006年・2007年・2008年・2011年・2012年・2013年)
PO出場20回 (1994年・1995年・1997年・1998年・2000年・2001年・2003年・2004年・2005年・2006年・2007年・2008年・2009年・2011年・2012年・2013年・2014年・2015年・2016年・2018年)
獲得タイトル
日本選手権優勝 (19回)
1976年・1982年・1985年・1992年・1994年・1995年・1996年・1998年・2005年・2006年・2007年・2008年・2009年・2011年・2012年・2013年・2014年・2016年・2017年
全日本社会人選手権優勝 (9回)
1976年・1981年・1982年・1983年・2000年・2006年・2007年・2009年・2013年
国スポ優勝 (14回):熊本県代表
1976年・1983年・1984年・1990年・1991年・1993年・1994年・2000年・2001年・2004年・2007年・2009年・2010年・2012年
東アジア選手権優勝 (3回)
2006年・2007年・2008年
役員
オーナー立石義雄
GM太田誠
監督 水野裕紀
ユニフォーム
サプライヤーヒュンメル

1st2nd

外部リンク
公式サイト

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オムロン ハンドボール部(: Omron Handball Team)は、熊本県山鹿市を本拠地とする女子ハンドボールチーム。日本ハンドボールリーグ所属。

同リーグには1976年の第1回大会から出場し、2016年現在で17回優勝するなど日本屈指の名門チームである。チームカラーはピンク色。

愛称のピンディーズ(Pindys)の「Pindy」は、チームカラーのピンク(Pink)の「Pin」、ホームタウンである山鹿市を連想させる鹿(Deer)の「D」、女性を意味する英単語のレディ(Lady)の「y」を組み合わせた造語である。[1]
歴史
大洋デパート

前身は熊本市を本拠地とした大洋デパートで、1961年4月に結成された。同年1月に行われた全日本室内選手権で優勝した熊本商大クラブのメンバーが入社したほか、1958年から全国高等学校総合体育大会(インターハイ)3連覇を達成していた熊本市立高校女子ハンドボール部のメンバーが加入[2]。以降国民体育大会(国体)優勝7回、全日本総合選手権優勝5回、全日本実業団選手権優勝7回、全日本選抜優勝4回を誇り、1969年からは2年連続で4大タイトルを独占、また1970年8月から1972年12月まで公式戦51連勝を記録するなど、輝かしい記録を残した。
立石電機

1973年11月に経営母体である大洋デパートで104人が死亡する火災(大洋デパート火災)が発生し、このため大洋はチームを維持できなくなった。1974年の年明け早々にハンドボール部の廃部が役員会で決定。ハンドボール部を残すため、熊本ハンドボール協会が熊本県のスポーツ界や財界と話し合いを行っていたところ、同年1月に熊本県山鹿市に工場を持つ立石電機(本社は京都府京都市)がチームの引き受けを提案。社長の立石一真が熊本県出身だったこともあり、話は一気にまとまった。2月7日に部員13人や大洋デパートへ入社予定だった2人、監督の井薫が新チームへ移籍した[3]

1976年に創設された日本ハンドボールリーグに参加[4]。同シーズンは東京重機が首位を独走。立石電機は東京重機に敗れたものの、その1敗(6勝)でシーズンを終えた。しかし東京重機が終盤に2連敗し、立石電機が優勝を果たした。井薫監督は「最後に重機が2敗するとは考えてもみなかった。単独1位となったのはラッキーかもしれない」と話した。和田祥子、島田夏枝、蔵田照美がベストセブンを受賞[5]。同年は全日本総合選手権・実業団選手権・国民体育大会も制し、史上初の「四冠」を達成した。

1977年は前シーズン限りで島田と蔵田が引退し、井監督も「2人の抜けた穴は非常に大きい」と話していた。新人にはインターハイ優勝校の大分県立大分東高等学校のエース・姫野五十鈴や、同じく2位の熊本女子商業高等学校の桑原広子が加入[6]。日本リーグ前期は紀野奈々美がリーグ得点2位の活躍をみせるも3位タイで折り返し[7]。シーズンは2位に終わった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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