オマー・ブラッドレー
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オマール・ブラッドレー
Omar Bradley
初代統合参謀本部議長時代のブラッドレー
渾名The G.I.'s General
生誕1893年2月12日
アメリカ合衆国 ミズーリ州クラーク
死没 (1981-04-08) 1981年4月8日(88歳没)
アメリカ合衆国 ニューヨーク州ニューヨーク
所属組織 アメリカ陸軍
軍歴1915年 - 1953年
最終階級 元帥
指揮NATO軍事委員会委員長
統合参謀本部議長
陸軍参謀総長
第1軍司令官
第2軍司令官
第82歩兵師団長
戦闘パンチョ・ビリャ討伐
第一次世界大戦
第二次世界大戦
朝鮮戦争
署名
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オマール・ネルソン・ブラッドレー(Omar Nelson Bradley、1893年2月12日 - 1981年4月8日)は、アメリカ軍人第二次世界大戦中に北アフリカおよびヨーロッパアメリカ陸軍を率いた有名な野戦司令官の一人。
生い立ちと初期の経歴ウェストポイント時代

ブラッドレーはミズーリ州ランドルフ郡の辺地、クラーク近郊で貧しい学校教師の息子として生まれた。彼は父親が勤める学校に通うが、父親は彼が9歳の時に死去した。母親はモバリーにブラッドレーと共に移り住み、そこで再婚した。ブラッドレーはモバリー高校では優等生であり、野球とフットボールのキャプテンであった。高校卒業後はウォーバッシュ鉄道で事務員として働きながら、ミズーリ大学へ進み法律を学ぶつもりでいたが、モバリーの日曜学校の教師からウェストポイントへの入学を助言された。彼は地区試験では2番目の成績であったが、首席の生徒はそれを受け入れず、ブラッドレーは首席として1911年に陸軍士官学校に入学した。ウェストポイントでは学業成績ばかりではなく、野球とフットボールでめざましい成績を上げた。3年次および4年次では国内でも指折りの大学選手として見なされた。

彼の最初の妻、メアリー・エリザベス・クエイルは故郷のモバリーで通りの向こう側に住んでいた。彼らは1916年12月28日に結婚した。

ブラッドレーは1915年にウェストポイントを卒業したが、そのクラスは将来の多くの将軍を含み後の歴史家達から"the class the stars fell on"「星が降りかかったクラス」と呼ばれた。彼の年次は結局59名の将官を輩出し、ブラッドレーとドワイト・D・アイゼンハワー元帥まで昇進した。

ブラッドレーは歩兵として任官し、第14歩兵連隊に着任した。多くの同級生とは異なりヨーロッパでの戦闘は経験しなかったが、アメリカ本土で様々な任務を得た。着任後まもなくメキシコ国境戦役に従軍し、第一次世界大戦へのアメリカの参戦と同時に大尉に昇進、モンタナ州ビュートの銅山警備任務に配属された。

1918年8月にはヨーロッパに送られる予定の第19歩兵師団に配属されたが、インフルエンザの大流行と休戦は彼をアメリカ本土に留めることとなった。

戦間期にブラッドレーは教官として学生たちへの教授を行い、また自らも学んだ。1920年から1924年まで彼はウェストポイントで数学を教えた。1924年に少佐に昇進、ジョージア州フォートベニングで上級歩兵コースを学ぶ。ハワイでの短期の任務後に1928年から1929年までフォートレヴェンワースの参謀学校で学んだ。1929年から再びウェストポイントで教官となり、1934年に再び陸軍大学で学ぶために休暇を取った。1936年には中佐に昇進、陸軍省で勤務する。1938年からジョージ・マーシャル陸軍参謀総長の直接配下で働いた。1941年2月には大佐を飛ばして准将に昇進[1]、フォート・ベニングの司令官に着任する。第82空挺師団に改編される前の第82歩兵師団を指揮した後、6月には第28歩兵師団長に着任した。
第二次世界大戦

ブラッドレーは1943年上旬まで前線での指揮を執ることができなかった。第8軍団に所属することになった師団を後任のロイド・D・ブラウンに引き継いだのち、トーチ作戦後にアイゼンハワーの前線におけるトラブルシューターとして北アフリカに派遣される。ブラッドレーの提案で、カセリーヌ峠の戦いで壊滅的な損害を受けた第2軍団は全面改組され、アイゼンハワーはジョージ・パットンを司令官として任命した。パットンはブラッドレーを自分の代理にするようアイゼンハワーに要請し認められたが、アイゼンハワーの代理としての権利もそのまま保有し続けた[2]

ブラッドレーは4月にパットンの後任として第2軍団司令官に着任し、チュニジア、シチリア島の戦いに従事する。中将に昇進すると、7月のハスキー作戦ドイツ軍イタリア軍を同島から掃討した。
ノルマンディーノルマンディー上陸作戦の指揮官達と艦上で視察するブラッドレー(左から2番目)

1944年には連合軍のフランス侵攻準備のため、アメリカ陸軍最高司令官としてロンドン入りした。ノルマンディー上陸作戦当日は第1軍司令官として作戦を陣頭指揮した。第1軍はイギリス第2軍と共にバーナード・モントゴメリーの第21軍集団を形成した。

6月10日にブラッドレーはスタッフと共に司令部を設置するため海岸に上陸した。オーバーロード作戦の間、彼は3つの軍を直接指揮し、アメリカ軍担当の2つの攻撃目標、オマハ・ビーチユタ・ビーチ攻略を行った。7月に入るとコブラ作戦を計画、ノルマンディーを足がかりとした内陸部攻略を始める。ノルマンディーでは上陸部隊の強化が続けられ、パットンの下で第3軍が形成された。第1軍はブラッドレーに代わってコートニー・ホッジスが司令官を引き継いだ。両軍は共に第12軍集団を形成し、ブラッドレーの配下となった。8月までに第12軍集団は兵力90万人以上に達し、その後1945年4月の段階では4個軍(第1、第3、第9、第15軍)、12個軍団、48個師団という大編成となり、その兵力は約130万人に達した。これは、一人の軍人が指揮する部隊の兵力としてはアメリカ陸軍史上最大であり、その後も記録は破られていない。

ブラッドレー最大の勝利は堅固なドイツ軍の抵抗に直面したときに到来した。ブラッドレーは航空機からの大型爆弾による敵歩兵部隊への攻撃を要請し、コブラ作戦下の7月21日に実際に使用した。地上軍進撃前に短時間の徹底的な爆撃を行い、部隊の進撃を遅らせるような瓦礫やクレーターを生じさせないようにした。爆撃はドイツ軍の通信を分断し混乱させ、連合軍の攻勢を切り開いた。ブラッドレーは3つの歩兵師団(第9、第4、第30)を爆撃地点の背後に派遣し、部隊はドイツ軍の防衛線の突破に成功した。しかしながら上級将校を含む数百名のアメリカ兵が爆撃による犠牲となり、歩兵による地上作戦に重爆撃機を使用することは繰り返されなかった[3]
ファレーズ・ポケット

ブラッドレーの重大な誤りは「ファレーズ・ギャップ」を閉じなかったことであった。ドイツ軍はアメリカ軍部隊の分断を狙ってリュティヒ作戦を行い、ブラッドレーの軍集団はファレーズ・ポケットを形成、ドイツ第7軍第5装甲軍を包囲した。1944年8月13日、ブラッドレーはパットン配下の第XV軍団を、南に移動しているカナダ軍部隊から25マイルの地点で停止させた[4]。結果として連合軍はアルジャンタン=ファレーズ・ポケットを閉じることができず、約24万名のドイツ軍将兵および3万の車両が脱出に成功した。用心深すぎたブラッドレーはドイツ軍の大半が既に脱出したと仮定し、過度にドイツ軍の反撃を恐れていた。後にこれが誤りであったことを認めたものの、彼は上官のモントゴメリーをアイゼンハワー同様に、カナダ軍部隊の移動が遅すぎたとして非難した。


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