オマル・トリホス
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この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の)はトリホス、第二姓(母方の)はエレーラです。

オマール・トリホス
Omar Efrain Torrijos Herrera


パナマ共和国
最高司令官
任期1968年10月11日1981年7月31日
大統領ホセ・マリア・ピニージャ (1968-69)
デメトリオ・B・ラカス (1969-78)
アリスティデス・ロヨ (1978-82)

出生1929年2月13日
サンティアゴ・デ・ベラグアス
死去1981年7月31日
Penonomeの近く
政党なし(軍人)
配偶者Raquel Pauzner de Torrijos
子女マルティン・トリホス

オマール・エフライン・トリホス・エレーラ(Omar Efrain Torrijos Herrera, 1929年2月13日 - 1981年7月31日)は、パナマ軍人政治家軍事政権を率いたが、反米ナショナリストとして民衆から広く慕われた。
目次

1 生涯

2 脚註

3 参考文献

4 関連作品

5 関連項目

生涯 オマール・トリホス(右)

1929年、サンティアゴ (Santiago de Veraguas) の教師の家庭に生まれる。幼少期に母親が米兵にぞんざいに扱われるのを目撃する。エルサルバドルアメリカ合衆国ベネズエラの軍人学校で英才教育を受けたのち1952年に国家防衛隊に入隊し、反体制派の弾圧に辣腕を振るうようになった。1968年のクーデターに加わり、最高司令官となり全軍を掌握する。

1972年には新憲法を制定して国の最高指導者としての全権を握り、ペルー革命を指導したペルーベラスコに影響を受けた[1]民族的政策を打ち出して国民の支持を集めた。その一環としてアメリカ占領下にあったパナマ運河地帯の主権回復を目指し、キューバカストロに接近し、近隣諸国に協力を求めるなどアメリカ合衆国に揺さぶりをかけた。こうして1977年、アメリカ合衆国と運河返還を約束する条約の締結に成功する。それ以外にも様々な国内改革を行い国民生活の改善に務めた。1978年、国家主席の座を退いたが国家防衛隊最高司令官としてとどまり、新たに結成した民主革命党 (PDR) を通じて圧倒的影響力を発揮し続けた。1981年、謎の飛行機事故で死亡した。事故の原因はアメリカによる暗殺と言われている。
脚註^ 中川・松下・遅野井(1985年)、p.190

参考文献

中川文雄、松下洋、遅野井茂雄『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史U』山川出版社、1985年

国本伊代、小林志郎、小澤卓也『パナマを知るための55章』明石書店、2004年 
ISBN 9784750319643

関連作品

グレアム・グリーン『トリホス将軍の死』早川書房、1985年 ISBN 9784152032959

関連項目

フアン・ベラスコ・アルバラード

マヌエル・ノリエガ

トクメン国際空港

軍職
先代:
新設 パナマ国家警備隊最高司令官
1968 - 1981次代:
フロレンシオ・フローレス・アギラール
党職
先代:
新設 パナマ革命の最高指導者
1972 - 1981次代:
なし

典拠管理

WorldCat Identities

BNE: ⇒XX1455424

BNF: ⇒cb119753935(データ)

GND: 119502984

ISNI: ⇒0000 0001 1670 2005

LCCN: ⇒n81129346

SNAC: ⇒w6805hk1

SUDOC: 027786323

ULAN: 500339025

VIAF: 72205502


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