オホーツクの舟歌
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「しれとこ旅情(オホーツクの舟歌の曲へ歌詞を再添)」
森繁久彌シングル
B面旅がらす
リリース1965年7月20日[1]
ジャンル歌謡曲
レーベル日本コロムビア
チャート最高順位


11位(オリコン


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「知床旅情」
加藤登紀子シングル
B面西武門哀歌
リリース1970年11月1日
ジャンルフォーク
レーベル日本グラモフォン
ゴールドディスク


第13回日本レコード大賞・歌唱賞

チャート最高順位

週間1位(オリコン

1971年度年間2位(オリコン)

加藤登紀子 シングル 年表

帰りたい帰れない
(1970年)知床旅情
1970年)少年は街を出る
1971年


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「しれとこ旅情」(しれとこりょじょう)は、民謡「さらばラウスよ」に、森繁久彌が、新たな歌詞を添詞をした楽曲。初出時の題は『しれとこ旅情』。後に「知床旅情」の表記にされた。1960年発表。
解説

知床を舞台にしたご当地ソング。知床とは、北海道北東部に位置する知床半島一帯をさす[注 1]知床国立公園があり、2005年7月17日には世界遺産に登録された。

楽曲制作者の森繁久彌は俳優業のほかに歌手、今でいう「シンガーソングライター」として自作自演をしNHK紅白歌合戦への出場歴もある。森繁久彌が1960年に戸川幸夫『オホーツク老人』を原作とするの映画『地の涯に生きるもの』の撮影で知床半島の羅臼村(現・羅臼町)に長期滞在した際に制作され、「さらば羅臼よ」は昔から地元で歌われてきた曲だったが、うろ覚えの人もが多く、詞も曲も不確かだった。それらを取材し、採譜し、採詞したのは吉松安弘という東大出の助監督であった。

1962年の大晦日に放送された第13回NHK紅白歌合戦では、森繁久彌自身によって披露された[注 2]。1963年、森繁久彌が歌う元歌の「オホーツクの舟唄」のシングルレコードのB面にザ・エコーズの歌唱で収録[1]、1965年に森繁がセルフカバーをしたものがシングルレコードとして再発売された[1]。後に加藤登紀子のカバーがヒットすると、森繁盤も売れ行きを伸ばし、1971年時点で森繁盤の売上は40万枚を記録した[2]

森繁は1975年3月にNHKホールで挙行された日本放送協会開局50周年記念式典において、昭和天皇香淳皇后の御前で「知床旅情」を歌唱している。

1971年に加藤登紀子がリリースしたアルバム『日本哀歌集』で取り上げ[3]、徐々に人気に火がついた。同年のオリコンのヒットチャートで7週連続の1位を獲得、同年のオリコン年間チャートで2位にランクインした。加藤盤の累計売上は140万枚[2][4](または138万枚[5])。また、同楽曲で第22回NHK紅白歌合戦に初出場をしたほか、1969年に続いて2度目の第13回日本レコード大賞・歌唱賞を受賞している。同楽曲のヒットの要因としては、当時日本国有鉄道ディスカバー・ジャパンのキャンペーンを展開していたことの相乗効果もあったといわれている[4]

なお、加藤版の歌詞は加藤がうろ覚えのまま歌っていたため森繁版とは若干異なる[6]。加藤は1968年、後に夫となる藤本敏夫との初デートで、別れの時に初めて「知床旅情」を聴いた[7]

加藤は1980年代には中国でコンサートを行っており、残留日本人孤児と共に中国語でこの曲を歌い、泣いたことがある[8]

NHK紅白では、およそ20年後の第41回NHK紅白歌合戦でも加藤登紀子によって歌われた。2005年、第56回NHK紅白歌合戦の開催にあたりNHKが大々的に行ったアンケート「スキウタ?紅白みんなでアンケート?[注 3]では、紅組対象の上位99位にランクインした。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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