オハイオ_(タンカー)
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オハイオ
オハイオの模型
基本情報
建造所サン・シップビルディング&ドックヤードカンパニー
運用者テキサス石油会社
イーグル・オイル・アンド・シッピング・カンパニー(英語版)
艦種タンカー
愛称オー・ハイッチ・テン
(O.H.10)
艦歴
起工1939年9月7日
進水1940年4月20日
その後1942年7月10日にイギリス商船隊(英語版)で就役
損傷後1946年9月19日に砲撃処分
要目
総トン数9,263 トン
全長515 ft(157 m)
機関ウェスティングハウス蒸気タービン、1軸推進 9,000 shp
最大速力16 ノット(30 km/h)
(公試時19 ノット(35 km/h))
乗員77 名(操砲要員24 名含む)
兵装5インチ単装平射砲×1基
3インチ単装高角砲×1基
ボフォース40mm単装機関砲×1基
エリコン20mm単装機銃×6基
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オハイオ(SS Ohio)は、テキサス石油会社(後のテキサコ)が建造した石油タンカー。オハイオは建造当時、世界最大級のタンカーであった[1]

第二次世界大戦中、オハイオは連合軍の求めによって、包囲下にあった重要拠点であるマルタ島への補給任務に従事した[2]。オハイオは1942年8月に、マルタ島への輸送船団のうち最も苛烈かつ激しい戦いの一つであったペデスタル作戦で主要な役割を果たした[3]。オハイオは多大な損害を受けつつも奇跡的にマルタ島へ辿り着くことができたが、積荷の石油を効果的に汲み出すため自沈する必要があった船体の損傷は大きく、二度と航海に復帰することはなかった。オハイオは今日、苦境にあったマルタ島の救世主とみなされ、敬愛の情を込めて記憶されている[4]
建造

進水前に第190番船(Hull 190)という名前で建造されていたオハイオは、船主の求める大きな貨油搭載能力と、船員の求める速度、復元性とを高度にまとめあげた優秀船であると見なされていた。その船首はスクーナーのように曲線を描きながら伸び、かつてのアメリカのクリッパーを彷彿とさせるものであった[5]

第190番船はまた、ナチス・ドイツ再軍備大日本帝国の軍事的伸張という国外の脅威の影響を受けてもいた。設計に当たって非公式ながらアメリカ軍と石油担当局長との間で調整が行われ、船の仕様は9,263トン、全長515フィート(約157m)、貨油搭載量170,000バーレル(約27,000?)と決定された。これは船体規模でも貨油搭載量のいずれでも、それまでに建造されたタンカーを上回る大型船であった。そして第190番船は、7か月と15日間という非常な短期間で竣工に至った[6]
構造

第190番船のウェスティングハウス蒸気タービンは毎分90回転で9,000軸馬力を発揮し、最大16ノットを出すことができた。第190番船は、1軸船で当時世界最速のタンカーであると見なされていた[7]

第190番船の船体は複合的な構造で造られていた。当時、欧米では数年間にわたってリベット接合と溶接接合の優劣が議論されていた。第190番船は船底外板と甲板部に溶接を導入し、構造的信頼性を高めた。また、骨材も縦骨式構造と横骨式構造の複合式を採用し、連続した縦通隔壁と多数の横隔壁によって21個の貨油タンクを設けたことで、船体に大きな強度を持たせることができたことも大きな特徴であった。その他機器類についても、一般のタンカーには積まれない高度なものが装備されていた[1]
船歴進水したオハイオ。1940年4月20日撮影。

第190番船の進水は悪天候のために当初の予定から1日遅れ、これは迷信深い溶接工や鋼板切断工といった作業員に不安を生んだ。しかし第190番船は彼らに見守られながら、翌日の1940年4月20日にペンシルバニア州チェスターのサン・シップビルディング&ドックヤードカンパニーで進水した。第190番船の進水は、テキサコ社長ウィリアム・スターリング・サリヴァント・ロジャースの母であるフロレンス・E・ロジャース夫人の手により行われた。彼女によってシャンパンのボトルが割られ、命名の言葉が告げられた[8]。本船を<オハイオ>と命名します。本船および本船と共に航海する人々に神のご加護のあらんことを。幸運を祈ります。[9]

オハイオという名前を得た第190番船は第2滑走台を滑り降り、デラウエア川に進水した。就役後のオハイオは最初の数年間、取り立てて何も起こることなくテキサス州ポートアーサーやその他様々なアメリカの港を往復した。この間、オハイオはニュージャージー州ベイヨンからポート・アーサーへの航海で1,882マイル(3,029km)を4日間と12時間、平均17ノット以上で航行する記録を立てている[10]
「ペデスタル作戦」立案とオハイオ

1942年当時、イギリス地中海で戦争の最中であり、北アフリカにおいてドイツアフリカ軍団イタリア軍に対し交戦中であった(北アフリカ戦線)。そしてこの戦いを遂行するにあたって不可欠だったのは、枢軸軍の補給路の真ん中に位置するマルタ島の存在であった[11][12]。マルタ島へ十分な軍需品、航空機、燃料が補給されている限り、北アフリカのドイツ軍とイタリア軍に大きな物資不足を強いることができていた[13]

しかし1941年12月以降、補給上の脅威であるマルタ島を無力化すべくドイツ空軍が連日猛爆撃を加えた。1942年2月に約1,000トン、3月に約2,000トンを超える爆弾がマルタ島に投下された[14]。3月と4月には、バトル・オブ・ブリテンで1940年の1年間にロンドンへ投下された量の2倍の爆弾がマルタ島へ落とされた。1942年1月1日から7月24日までの間で爆撃がなかった日は僅かに1日しかなく、マルタ島の継戦能力は日を追うごとに弱まっていった[15]

枢軸軍の攻撃が一時的に弱まった間を突いて、軍需品と航空機の補給が行われた。例えば、島の防衛のために洋上の空母からホーカー ハリケーンスーパーマリン スピットファイア戦闘機を発艦させてマルタ島へ補給する作戦(一連の活動は「クラブラン」と呼ばれた)などが行われたが、食料や燃料などその他物資は極度の不足をきたしていた[16]。マルタ島の食料自給率は低く、補給がほとんど途絶えてからは食料品の配給量が健康維持に必要な最低量すら下回ったため、栄養失調に陥ったり腸チフスに罹患する者も発生した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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