オノサト・トシノブ(本名:小野里 利信、1912年(明治45年)6月8日 - 1986年(昭和61年)11月30日)は、日本の抽象画家、芸術家。長野県下伊那郡飯田町(現・飯田市)生まれ[1]。10歳から群馬県桐生市で育ち、旧制・群馬県立桐生中学校(現・群馬県立桐生高等学校)卒業[1]。日本大学工学部電気科中退[2]。 津田青楓の津田洋画塾出身。戦後はヴェネツィア・ビエンナーレやその他欧米の美術展に積極的に出品・参画した。グッケンハイム美術館や、日本各地の美術館に作品が収蔵されている。モザイク状の幾何学的抽象様式が知られ、版画、シルクスクリーン作品も多い。
概略
略歴
1912年(明治45年) - 長野県下伊那郡飯田町(現・飯田市)に、長野県立飯田中学校の教師、小野里万蔵の長男として生まれる。
1919年(大正8年) - 父万蔵が北甘楽郡立実科高等女学校に転勤になり、一家は群馬県富岡町へ移住。富岡尋常小学校に入学。
1922年(大正11年) - 万蔵が群馬県立桐生高等女学校へ転勤になり、一家は桐生市へ移住。桐生北尋常小学校へ転校。
1925年(大正14年) - 桐生北尋常小学校を卒業。群馬県立桐生中学校に入学。
1930年(昭和5年) - 桐生中学校を卒業。
1931年(昭和6年) - 日本大学工学部電気科へ入学。群馬県育英会が運営する上毛学舎
1935年(昭和10年) - 二科展に入選。野原隆平、清野恒、山本直武(蘭村)と前衛グループ「黒色洋画展」を結成。
1936年(昭和11年) - 瑛九、久保貞次郎と知り合う。第14回黒色洋画展に斎藤義重が参加。
1937年(昭和12年) - 黒色洋画展が前年の第14回展で終了とされ、自由美術家協会の会友となる。長谷川三郎が兄の庚一とともに設立した「白堊社」に参加。
1940年(昭和15年) - 満州、安東の弟捷三を訪ねた帰りに京城の金煥基、山口長男を訪ねる。
1942年(昭和17年) - 召集され、高崎の第38部隊に入隊、歩兵第15連隊に編入。太平洋戦争に従軍
1945年(昭和20年) - 満州で終戦を迎える。シベリアで抑留される
1948年(昭和23年) - ナホトカより帰国、桐生市に戻る。
1949年(昭和24年) - 山田郡相生村立相生中学校の美術講師となる。
1950年(昭和25年) - 大間々町立大間々中学校の助教諭となる。桐生美術協会の初代会長となる。
1951年(昭和26年) - 田口智子と結婚。
1952年(昭和27年) - この頃から名前を「オノサト・トシノブ」とカタカナ表記にするようになる。
1953年(昭和28年) - 朝妻治郎の推薦で神田のタケミヤ画廊で初めての個展開催。
1956年(昭和31年) - 大間々中学校を退職。
1961年(昭和36年) - ワシントンD.C.のグレス画廊で個展。
1963年(昭和38年) - 第7回日本国際美術展に「相似」を出品。日本部門最優秀賞を受ける
1964年(昭和39年) - グッケンハイム国際賞展に出品し。作品が同館の所蔵となる。第32回ヴェネツィア・ビエンナーレに出品。
1966年(昭和41年) 「世界」2月号に「色と形と生命力」を発表。第33回ヴェネツィア・ビエンナーレに出品。
1967年(昭和42年) - 新しいアトリエが完成。
1969年(昭和44年) - 愛知県美術館集会室にて「オノサト・トシノブ、磯辺行久、アイ・オー 三人展」開催
1972年(昭和47年) - チューリッヒのコルンフェルト画廊で個展
1974年(昭和49年) - デュセルドルフ美術館
[3]
主な作品
「32個の丸」 - 1971、第10回現代日本美術展出品作品
「相似」 - 1963、福岡シティ銀行蔵
「同心円」
脚注[脚注の使い方]^ a b “群馬:桐生でオノサト・トシノブ展…「ベタ丸」独自の作風:地域ニュース”. 読売新聞オンライン (2022年5月29日). 2022年10月29日閲覧。
^ “日本の抽象絵画のパイオニア「オノサト・トシノブ」 - METROCS Tokyo” (2021年11月15日). 2022年10月29日閲覧。
^ 群馬県立近代美術館 2000, pp. 116?125.
参考文献
群馬県立近代美術館 編『抽象のパイオニア オノサト・トシノブ』オノサト・トシノブ展制作実行委員会、2000年。
関連項目
松本俊介
山口薫
福沢一郎
岡本太郎
棟方志功
東宮鉄男 - 姉・操の夫。
外部リンク
⇒ときのわすれもの
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