オドリコ
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福者ポルデノーネのオドリコ

生誕1286年
ポルデノーネ
死没1331年1月14日(1331-01-14)
ウーディネ
崇敬する教派カトリック教会
列福日1755年
列福決定者ベネディクトゥス14世
主要聖地ポルデノーネ
記念日2月14日
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ポルデノーネのオドリコ(俗名 オドリコ マッティウシ 或いは マッティウジ; 1286年1331年1月14日)は、後期中世イタリアの旅行家・修道士。彼の中国訪問に関する報告書簡はジョン・マンデヴィルの旅行記の重要資料となった。マンデヴィルの旅行記に掲載されている多くの驚異の事物はオドリコの目撃談を捻じ曲げて利用したものだと考えられている。
生涯

(現在はイタリアのフリウーリ地方のポルデノーネの町に所属している)Villanova村で1286年に生まれた。彼の先祖はマッティウシというチェコ人だった[1]。伝記史家によれば、彼は若い頃、フリウーリの州都であるウーディネフランシスコ修道会に入会した。ポルデノーネのオドリコの旅立ち

1296年にオドリコはバルカン半島、次いで南ロシアのモンゴルへ赴く任務を受けた[2]

修道士オドリコは1318年4月に東方へと派遣された。パドヴァから出発し、ヴェネチア経由でコンスタンティノープルへ向かい、黒海を渡ってトラブゾンに達した[1]。そこからアルメニア・メディア・ペルシアへ向かった。これらの場所は全てフランシスコ修道会が布教拠点を建てていた[2]。スルターニヤからカーシャーンヤズドペルセポリスシーラーズバグダッドなどの地域を経てペルシア湾に達した。アイルランド人の同僚である修道士ジェイムズ(英語版)と一緒にホルムズからインドへ渡り[2]ボンベイ近郊のターネーに上陸した。

この町には四人のフランシスコ修道会士がおり、彼らのうち三人はイタリア人で、もう一人はグルジア人だった。彼らは少し前にムスリムの知事の手で殉教させられていた[1]殉教した修道士の骨をカタルーニャの修道士ヨルダヌス(英語版)とドミニコ修道会の修道士(インドのクイロン主教管区(英語版)の最初の主教)が集めてSuperaに運び、そこに埋めた(Superaは古代の地誌に登場するSupparaであり、ボンペイ北方26マイルにある現在のヴァサイ(英語版))。オドリコは、四人が葬られている墓地に来て遺骨を掘り出して、旅行に携えてゆくことにした。この後、フランドリナ、シンギリン(現クランガノル(英語版))、クイロンセイロン島を通り、北部ケーララのマラバールに達した。マラバールにはトマスの遺骸のある教会があった。

彼はインドからジャンク船に乗りスマトラ島ジャワ島に達した。ジャワ島に関する記述では、ジャワの王はカタイの汗と何度も交戦して撃退した、との記載がある(フビライのジャワ遠征を示していると思われる)。ボルネオ島付近を北上しザンパ(チャンパー)を経て南下、ニコバル諸島、シラン島(セイロン島に比定される)、ドンディン島(アンダマン諸島に比定される)を経てチェンスカラン(広東)に到着した[3][4]。広東からザイトン(泉州)、フゾ(福州)、カンサイ(杭州)、チレンフ(南京)、イアムザイ(揚州)、レンズィン(臨城)、スンズマトゥ(済寧)、カンバリク(北京)に到着した[5]。ザイトンにはフランシスコ修道会の修道院が2つあり、オドリコは、そこにインドから携えていた殉教者の遺骨を埋葬した。

オドリコは1324から1327年まで約3年間滞在し、モンテコルヴィーノに建設された教会の一つに関係していたと思われる(モンテコルヴィーノは1328年に死去した)。3年間の滞在後、北京を発って帰国の途につき、西方へ向かい、50日後にプレスター・ジョンの地へ到着、その後トザン、カンサン、チベットラサ、ミレストルテ[6]などを通過し、1329年末か1330年初頭にヴェネツィアに到着した。

彼の北京滞在は1324-27年と推定されているが、それは、帰国後彼の旅を口述を筆記したソラーニヤのグリエルモ修道士が、1330年5月に採録したと筆記していることで帰国が1329年末から1330年初頭と考えられること、インド西部滞在が1321年か22年頃までであると考えられることから、中国滞在は1323年初頭から1328年末までの間の3年間だと推定されている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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