オデッサ大学
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オデッサ大学


大学設置/創立1865年
学校種別国立
本部所在地ウクライナ オデッサ
ウェブサイト ⇒http://www.onu.edu.ua
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オデッサ大学(おでっさだいがく、英語: Odesa I. I. Mechnikov National University、公用語表記: Одеський нац?ональний ун?верситет ?мен? ?. ?. Мечникова)は、ウクライナ オデッサに本部を置くウクライナ国立大学1865年創立、1865年大学設置。大学の略称はONU。

I・I・メニチコフ記念オデッサ国立大学 (ウクライナ語: Одеський нац?ональний ун?верситет ?мен? ?. ?. Мечникова)[1] は、ウクライナオデッサに本部を置く同国の主要な国立大学のひとつである。本大学で教授を務め、(免疫学微生物学ならびに進化発生学を研究し、)1908年ノーベル生理学・医学賞を受賞した科学者のイリヤ・イリイチ・メチニコフに因んで大学名を名付けている。大学は1865年ロシア皇帝アレクサンドル2世勅令により、オデッサの 「リシュリュー貴族学校(ロシア語版)」[2] が再編されて、新設の 「帝国ノヴォロシア大学」 として設置された。1917年から1920年までは「ノヴォロシア大学」、1933年から1945年まで 「オデッサ国家大学 」、1945年から2000年までは 「I・I・メニチコフオデッサ記念国家大学 」と大学の名称は変遷を遂げ、2000年以降、現在の名称を使用している。頭文字表記による略称は、ラテン文字表記では 「ONU」 、キリル文字表記では 「Ону」である。

キエフハルキウリヴィウの大学と並んでウクライナで最も古い大学のひとつに挙げられており、実際にウクライナにおける教育ネットワークを介して同国の教育科学文化の発展の現況とその将来を左右している[3]

I・I・メニチコフ記念オデッサ国立大学は、4つの研究機関、10の学部、7つの専門家評議会で構成されている。本大学の (15世紀から現代まで、36億冊の蔵書を誇る) 科学図書館は有名であり、ウクライナ国内で最大規模かつ最古の大学である。
沿革I・I・メチニコフ記念オデッサ国立大学の本館

1862年(旧ロシア暦:6月10日) 6月22日に出されたロシア皇帝アレクサンドル2世の勅令に基づき、1865年(旧ロシア暦:5月1日) 5月13日、1817年からオデッサに設置されていたリシュリュー貴族学校を「帝国ノヴォロシア大学」に再編させて誕生した[4]。設立日から、1863年の法令に基づいた大学のすべての学問的および科学的生活は、国の社会的および政治的生活における各方面からのあらゆる妨害にもかかわらず、高等教育の為の施設としての自由民主主義の伝統を創り、今日まで守り続けている。帝国ノヴォロシア大学は、その設立当初から、重要な科学の中心地となり、黒海北部沿岸地域の科学分野や教育分野で中核となる人物を養成する為に重要な役割を果たした。

ノヴォロシア大学の開校当初は、歴史哲学部、物理数学部及び(最も多数を占めた)法学部の三つの学部を構成していた。歴史哲学部は1クラス制であり、多数の学生が学んでいる他の二学部は2クラス制であった[5]。174人の生徒に加えて、58人の聴講生が授業に参加していた[6]1868年に最初の卒業生たちを送り出した。同年、サンクトペテルブルク大学博士号を取得し、無脊椎動物における胚葉の発達に関する論文でカール・エルンスト・フォン・ベーア賞を受賞[7]したばかりのメニチコフを22歳の若さで准教授に招聘した。

1870年には、日露戦争講和条約であるポーツマス条約にロシア側の首席全権となり、日本側の首席全権小村寿太郎との間で講和条約の調印を交わしたことで有名なセルゲイ・ウィッテが卒業した。彼はロシア第一革命を沈静化を図る為に1905年10月17日にロシア皇帝ニコライ2世の名によって出された十月詔書の起草者のひとりであり、ウクライナ国内で現在も運行している南西鉄道(ウクライナ語版)の経営責任者でもあり、ロシア帝国運輸大臣、大蔵大臣、首相などを歴任した人物である。

1886年、大学内にロシア初となる細菌学研究所が設立され、メニチコフが担当教授となった。彼はパストゥールワクチンを用いて狂犬病研究を行なっていたが、地元の民衆からの理解を得られず間もなく辞任し、本大学を去る結果となってしまっている。

1900年に、四番目の学部として医学部が設置された。

1920年に帝国大学であった本大学は解散閉学させられ、「物理数学研究所」と「社会科学・人文科学研究所」に分割された。1933年にオデッサ物理化学研究所を中核とするオデッサにある各高等教育施設の統合が行われ、ソビエト連邦という社会主義国家の監督下で「オデッサ大学」の名称の総合大学として復活することになった[8]

オデッサ大学は、第二次世界大戦中にウクライナで大学の授業を継続した唯一の大学であった。1941年東部戦線におけるオデッサの戦いドイツ軍の支援を受けた枢軸国側のルーマニア軍によりオデッサが陥落させられた後、ドニエストル川南ブーフ川に挟まれた沿ドニエストル地域に大学機能を移した。ルーマニアの統制下で、本大学医学部の卒業生で外科医のパヴェル・チャソヴニコフが学長を務めた。第二次世界大戦中に亡くなったメヒニコフと共に祀るONUの生徒と教員の慰霊碑。

1945年、オデッサ大学はオデッサの地に戻り、I・I・メニチコフの名を大学名に冠し「I・I・メニチコフ記念オデッサ国家大学 」 として再出発を図ることになった。

1965年、ONUは卓越した専門家育成の功績を挙げたとして赤旗勲章を授与され、1978年にはソ連の主要大学のリストに本大学の名が挙げられた。

1991年ソビエト連邦の崩壊後、ウクライナは独立を果たすとともに選挙によって国民の代表が選ばれるという民主主義国家に移行した。2000年に、本大学はウクライナ民族国民国家であるウクライナ政府の国営による国立大学となった。2003年5月18日、オデッサ国立大学は、高等教育における学位認定の質と水準を国が違っても同レベルのものとして扱うことができるように整備するのを目的としたボローニャ・プロセスに署名した最初のウクライナの大学のひとつとなった。

現在、約1万7千人の学生が本大学で学習し、1300人以上の教員が勤務し、その内の200人以上の科学博士、教授として研究と指導を行なっている。40以上の新しい専門分野、約100の新しい部門とセンターが開設されている。教育カリキュラムは、オデッサやヘルソンの各地域の都市で作成されている。


ウクライナ国立銀行が鋳造したI・I・メニチコフ記念オデッサ国立大学の開校150年記念コイン。

1991年に、本大学は欧州大学協会(EUA)に、1995年にはユネスコ世界大学協会(IAU)に招待された。


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