オディロ・グロボクニク
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ドイツ国政治家オディロ・グロボクニクOdilo Globocnik
1938年、親衛隊大佐の頃のグロボクニク
生年月日1904年4月21日
出生地 オーストリア=ハンガリー帝国トリエステ
没年月日 (1945-05-31) 1945年5月31日(41歳没)?
死没地 ドイツ国、パテルニオン(英語版)
出身校クラーゲンフルトの文官の高校
前職建築士
所属政党国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)
称号親衛隊中将、警察中将、ドイツ十字章金章、一級鉄十字章パルチザン掃討章銀章 
配偶者マルガレーテ(旧姓ミッチェナー)
サイン
ナチ党ウィーン大管区指導者
在任期間1938年5月22日 - 1939年1月30日
ルブリン地区親衛隊及び警察指導者
在任期間1939年11月9日 - 1943年8月16日
アドリア海岸作戦地域親衛隊及び警察高級指導者
在任期間1943年9月13日 - 1945年5月8日
国会議員
選挙区ウィーン選挙区
在任期間1938年4月10日 - 1945年5月8日
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オディロ・ロタール・ルドヴィクス・グロボクニク(Odilo Lothar Ludovicus Globocnik[1]1904年4月21日1945年5月31日?)は、ドイツ政治家官僚軍人。最終階級は親衛隊中将および警察中将[1]。「グロボチュニク」[2]、「グロボツニク」[3]などの表記も散見する。愛称はグローブス[1]

オーストリア・ナチ党で頭角を現し、アンシュルス後にはナチ党ウィーン大管区指導者を務めた。第二次世界大戦中には親衛隊(SS)の将軍としてポーランドルブリン地区親衛隊及び警察指導者を務め、ラインハルト作戦(ユダヤ人のゲットーを解体して絶滅収容所へ移送する計画)の執行にあたった。
経歴
アンシュルス前

当時オーストリア・ハンガリー帝国領だったトリエステにハプスブルク騎兵隊大尉フランツ・グロボクニクとその妻アンナの息子として生まれる[4]。グロボクニクはスラブ系スロベニア系)の姓である。オディロも陸軍幼年学校に入ったが、第一次世界大戦の影響でケルンテンクラーゲンフルトへ移り、文官の高校へ入学した。

卒業後、ケルンテンで建築士の仕事をした。1922年にオーストリア・ナチ党に入党[1]。1931年3月1日にはドイツ・ナチ党にも入党(党員番号412,938、後に442,939)している。また1934年9月1日に親衛隊(SS)の隊員となる(隊員番号292,776)[1]。オーストリアでのグロボクニクは、オーストリア・ナチ党とドイツ・ナチ党との連絡役を務めていた。1934年末頃にはドイツ・ナチス党のSD長官ラインハルト・ハイドリヒのオーストリアでの密接な連絡者になっていた。1936年7月16日にはアドルフ・ヒトラーベルヒテスガーデンの山荘に招かれており、オーストリア・ナチ党が非合法活動から手を引くことを求められた[5]

グロボクニクは、フリードリヒ・ライナー(ドイツ語版)やエルンスト・カルテンブルンナーに近い立場をとっており、当初はオーストリア・ナチ党の合法化に固執しなかった。1933年から1935年にかけてグロボクニクは4度にわたりオーストリア警察から逮捕されている。しかしその後、ライナー・カルテンブルンナー・グロボクニクらは、合法路線のアルトゥル・ザイス=インクヴァルトらと連携し、ザイス=インクヴァルトのナチス党政権をつくることに尽力した[6]
ナチス政権下

アンシュルス(オーストリア併合)直後の1938年3月からウィーン地区のドイツ国会議員となる。3月12日には親衛隊大佐に昇進し、親衛隊上級地区「ドナウ」司令官エルンスト・カルテンブルンナーの幕僚となる[7]

1938年4月10日からウィーン選挙区選出の国会議員となる[7][8]

同年5月22日にナチス党のウィーン大管区指導者に任じられたが、外国為替違法投機を行ったことにより、1939年1月30日をもってウィーン大管区指導者を免ぜられ、後任にはヨーゼフ・ビュルケルが就任した[9][10]

しかしSS長官ハインリヒ・ヒムラーからは許された。この後、グロボクニクは名誉回復の場を求めるようになり、親衛隊特務部隊に入隊を希望し、1939年3月から第2連隊「ゲルマニア」に入隊した。一般親衛隊での階級の継承は認められず、親衛隊少尉としての勤務であった[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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