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紋章地図
基本情報
連邦州:ヘッセン州
行政管区:ダルムシュタット行政管区
郡:郡独立市
131,295人(2021年12月31日現在)[1]
人口密度:2,925 人/km2
郵便番号:63065 - 63075
市外局番:069
ナンバープレート:OF
自治体コード:
06 4 13 000
行政庁舎の住所:Berliner Strase 100
63065 Offenbach am Main
ウェブサイト:www.offenbach.de
首長:フェリックス・シュヴェンケ (Felix Schwenke)
州内の位置
地図
オッフェンバッハ・アム・マイン (ドイツ語: Offenbach am Main, ドイツ語発音: [??f?nbax] ( 音声ファイル)[2]) は、ドイツ連邦共和国ヘッセン州に属す郡独立市である。ライン=マイン地域に位置する人口約 12万3千人の、ヘッセン州第5の都市である。元々はユグノー教徒の街であったが、工業都市として発展し、特に皮革産業の中心地として知られる。オッフェンバッハはサービス業の中心地としても重要であり、デザイン分野で高い評価を得ている産業クラスターの中心的役割を担うオッフェンバッハ・アム・マイン造形大学 (HfG) を有する大学都市でもある。フランクフルト・アム・マインと境を接するこの街は、ヘッセン州に 10都市ある上級中心都市の一つであり、人口、面積ともに同州で最小の郡独立市である。
地理S字型に蛇行するマイン川の南側(画面下側)がオッフェンバッハ・アム・マイン。北側はフランクフルト・アム・マイン市に属す
オッフェンバッハは、マイン川が S字状に蛇行する湾曲部の南から南東岸に位置する。フランクフルト・アム・マインのオステント市区およびフェッヒェンハイム市区の対岸、オーバーラント市区およびザクセンハウゼン市区の東にあたる。両都市の境界部では、互いに連続し、一体化した住宅地を形成している。市域内をビーバー川やハインバッハ川といった小さな川が流れている。オッフェンバッハは、ヘッセン・アップルワイン・果樹園ルートに面している。開発が進んでいるのは市の北部で、南部には広い森が広がっている。市内の最高地点はシュネッケンベルクの 166 m、最低地点はイーゼンブルク城前のマイン川の河原で 97 m である。 市の南部にあるオッフェンバッハー・シュタットヴァルト(オッフェンバッハの市の森)の面積は、1,252 ha である。約 57 % がマツ、28 % がブナ、15 % がオーク、1 % がトウヒである。担当の森林管理事務所はビーバー市区の端にあり、ランゲン森林監督局の下位機関である。第二次世界大戦中は、この森の中に「シャインデルファー」(見せかけの村)が造られた。これは空爆による損害を軽減するために造られたものである。古木に刺さった爆弾の破片が、誤った爆撃が多くなされたことを物語っている[3]。 オッフェンバッハは、西と北はフランクフルト・アム・マイン、北東はマインタール(マイン=キンツィヒ郡)、東はミュールハイム・アム・マインおよびオーベルツハウゼン、南はホイゼンシュタムおよびノイ=イーゼンブルク(以上 4市はいずれもオッフェンバッハ郡)と境を接している。 オッフェンバッハ・アム・マインの市域は、ビーバー、ビュルゲル、カイザーライ、ラウターボルン、ローゼンヘーエ、ルンペンハイム、テンペルゼー、ヴァルトハイムの各市区からなる。2011年にインネンシュタット(市中心部)東部がマチルデンフィールテル(マチルダ街区)と公式に名付けられた。これ以前はこの枚省はビュルゲル市区の一部に用いられていた。 市区内には、好適には個別の街区として認められていないものの地理的状況や建物の集合の具合などから慣例的に街区や集落とみなされているものがある。たとえば、ルンペンハイム市区のハンス=ベックラー集落、ミュールハイム通り沿いのエーシヒ、ビーバー=ヴァルトホーフやヴァルト通り沿いのカール=ウルリヒ集落などである。 統計上の地域には、以下のように行政の番号がふられている(2010年現在)。 上述の市区のうち、以下の 3市区は、かつては独立した町村であった。ビュルゲルは1908年4月1日、ビーバーは1938年4月1日、ルンペンハイムは1942年4月1日にオッフェンバッハに合併した。 オッフェンバッハは、561年のフランク王国分裂後に建設された。- bach で終わる語尾は、この時代の典型的な地名の付け方である。前半部は一説には Ovo という人名に関連していると言われる[4]。一方、オットー・フォルガーは 1860年の「オッフェンバッハ自然文化財協会第一報告」の中で、Ave = Aue(川や池沿いの湿った草地)であり、Auenbach が地名の起源であると唱えた[5]。地名の起源は未だに明らかでない。Often(=オーブン。この付近にローマ時代の石灰焼成場があったと推定されている[6])や、offenen Bach(開けた土地の小川)に由来するという説は、地名研究の分野では可能性が低いとされる[7]。6世紀から7世紀に、最も古い集落の南にヴァルト通りに沿ってフランク人の墓地が設けられた[8]。 ローマ時代には現在の市域内をローマ街道が通っていた。この街道はオッフェンバッハを通り抜け(ベルナルト通り)、おそらくビュルゲルやミュールハイム・アム・マインを経由してシュタインハイムに通じていた[8]。ビーバー市区やビュルゲル市区にもローマ時代の痕跡は遺されている[9]。市域内を通っていた 2本のローマ街道がビーバー近郊で交差していた。当時この地域は、ゲルマニア・スペリオル属州の Civitas Auderiensium に属していた。 市内の発掘調査で、石器時代の出土品が発見されている。しかし、石器時代の入植地とフランク人のそれとの間に連続性があるか否かは結論が出ていない。ヴェルナー3世フォン・ファルケンシュタインが1400年頃にオッフェンバッハで発行した金貨 20世紀になって合併した現在の市区であるルンペンハイム、ビュルゲル、ビーバーについては、770年、791年、790年にそれぞれ最初の記録が遺されている。オッフェンバッハについての最初の記録は、977年の皇帝オットー2世がフランクフルト・アム・マインのザルヴァートール教会(後の聖堂)に宛てた寄贈証明書に遺されている[10]。それまでオッフェンバッハはマインガウの一部であり、周辺の森はドライアイヒの御狩場に属していた。オッフェンバッハには 30のヴィルトフーベ(農場と農家または地主の屋敷からなる小集落)があった。中世から1819年までオッフェンバッハはビーバーマルクの一部であった。 オッフェンバッハは時代とともにその所有者を替えた。最初の所有者はハーゲン=ミュンツェンベルク家であった。彼らはドライアイヒの帝国代官として官僚の時代から所領を引き継いできた。ミュンツェンベルク家の断絶後、1255年にファルケンシュタイン家がマイン川沿いの村を相続した。
シュタットヴァルト
隣接する市町村
市の構成オッフェンバッハ・アム・マイン市区図
11 ホーホシューレ・フュア・ゲシュタルトゥンク(造形大学)
12 ヴィルヘルムシューレ
13 メッセハレ
14 カイザーライ
15 レーダームゼウム
16 マチルデンシューレ
21 デュテディッシェ・クリニーケン
22 ラウターボルン
23 フリードリヒスヴァイアー
24 バッハシューレ
25 リヒテンプラッテンヴェク
26 ビーベラー・ベルク
31 フォルダーヴァルト=ローゼンヘーエ
32 テンペルゼー
33 ビーバー
41 ミュールハイマー・シュトラーセ
42 ヴァルトハイム
43 ビュルゲル
44 ルンペンハイム
歴史
古代
中世
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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