オットー・ヤーン
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オットー・ヤーン
Otto Jahn

生誕 (1813-01-16) 1813年1月16日
ホルシュタイン公国 キール
死没 (1869-09-09) 1869年9月9日(56歳没)
プロイセン王国
ゲッティンゲン
職業考古学者文献学者著作家
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オットー・ヤーン(Otto Jahn 1813年1月16日 - 1869年9月9日)は、ドイツ考古学者文献学者、美術と音楽に関する著作家
生涯

キールに生まれる。キール大学ライプツィヒ大学ベルリン大学で大学教育を終えた後、フランスイタリアを3年かけて旅してまわる。ローマではアウグスト・エミール・ブラウン(英語版)の作品に大きく影響を受けた[1]1839年にキールで私講師となり、1842年にはグライフスヴァルト大学にて考古学文献学の特別教授に就任している。1845年に常任の教授に昇進した。

1847年にライプツィヒで考古学の教授職を得るが、1848年から1849年にかけての政治的運動に加わったことを理由にテオドール・モムゼン、モーリッツ・ハウプト(英語版)とともに大学を解雇される[1]1855年ボンにおいて古器物科学の教授、学術的美術博物館の館長に任用された。この場所に勤める間、ベルリンにてフリードリヒ・ヴィルヘルム・エドゥアルト・ゲルハルト(英語版)の後任としての依頼を辞退している[2]

彼が著したヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの伝記は、モーツァルトの生誕100周年にあたる1856年に刊行された。この業績はその学術的手法により称賛され[注 1]、その後もヘルマン・アーベルトクリフ・エイセンによる改定を経て現在も用いられている[3]

1869年にゲッティンゲンにて没した。

著名な門人には古典考古学者、文献学者のフーゴ―・ブリュンマー(英語版)がいる。
主要作品ハウプト(英語版)、モムゼン、ヤーン。ゲーテの胸像の前で ライプツィヒ 1848年。

考古学:

Palamedes (1836)

Telephos und Troilos (1841)

Die Gemalde des Polygnot (1841)

Pentheus und die Manaden (1841)

Paris und Oinone (1844)

Die hellenische Kunst (1846)

Peitho, die Gottin der Uberredung (1847)

Uber einige Darstellungen des Paris-Urteils (1849)

Die Ficoronische Cista (1852)

Pausaniae descriptio arcis Athenarum (3rd ed., 1901)

Darstellungen griechischer Dichter auf Vasenbildern (1861)


文献学:

ユウェナリス、ペルシウス(英語版)、スルピシア(英語版)のクリティカル・エディション (第3版はフランツ・ビュヘラー(英語版)による 1893年)

ケンソリヌス(英語版) (1845)

Florus (1852)

キケロの『Brutus』(第4版 1877年)と『Orator』(第3版 1869年)


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