オットー・ハインリヒ・フランク(Otto Heinrich Frank、1889年5月12日 - 1980年8月19日)は、『アンネの日記』で知られるアンネ・フランクとその姉マルゴット・フランクの父親である。アンネの死後の1947年、彼女の日記を出版した。ホロコースト生還者である。
生涯
生まれ(ドイツ語版)の都市フランクフルト・アム・マインで生まれる。父は銀行家ミヒャエル・フランク(Michael Frank,1851-1909)。母はその妻アリーセ・ベッティー・フランク(Alice Betty Frank,1865-1953)(旧姓シュテルン(Stern))[1]。
母アリーセの実家のシュテルン家はユーデンガッセ(フランクフルト・ゲットー)から出た家であり、裕福なユダヤ人一家であった[2]。一方父ミヒャエルはプファルツ地方のランダウ出身のユダヤ人であり、1879年にフランクフルトに出てきて、1885年にアリーセと結婚することで成功の足掛かりをつかんだ人物である[3]。金融業で成功し、「ミヒャエル・フランク銀行(Bankgeschaeft Michael Frank)」を所有・経営した[4]。上流階級の仲間入りをしたフランク家は1902年にフランクフルト西部の高級住宅地ヨルダン通り(jordanstrase)4番地へ引っ越した[5]。
オットーは夫妻の次男であり、兄にローベルト、弟にヘルベルト、妹にヘレーネがいる[6]。 フランクフルトのギムナジウムで学び、優秀な成績でアビトゥーアに合格した[7]。 美術や考古学が得意であったオットーは、1908年にハイデルベルク大学美術史科に入学した[8]。ここでアメリカのプリンストン大学からの留学生であるネーサン・ストラウス・ジュニア
青年期
しかし翌年の1909年秋には父ミヒャエルが死亡したため、急遽ドイツへ帰国することとなった[10]。ミヒャエルの銀行の所有権は母アリーセに移ったが、銀行の実務の多くをオットーが握ることとなった。1910年からはデュッセルドルフにある金属工業会社の経営管理も引き受けることとなった。デュッセルドルフでの経営管理の仕事を主とし、片手間で銀行の経営を見て、ときどきニューヨークへ出張するという毎日が続いた[11]。 1914年の第一次世界大戦開戦後もしばらくこういった生活が続いた。しかし1915年に兄や弟とともに陸軍に徴兵された。オットーは砲兵連隊に配属されて射距離測定員となった[12]。
第一次世界大戦