この項目では、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子について記述しています。その他の同名の人物については「オットー・フォン・エスターライヒ」をご覧ください。
オットー・フォン・ハプスブルク
Otto von Habsburg
オーストリア=ハンガリー帝国皇太子
ハプスブルク家家長
オットー・フォン・ハプスブルク
全名Franz Joseph Otto Robert Maria Anton Karl Max Heinrich Sixtus Xaver Felix Renatus Ludwig Gaetano Pius Ignazius von Osterreich
フランツ・ヨーゼフ・オットー・ローベルト・マリア・アントン・カール・マックス・ハインリヒ・シクストゥス・クサーヴァー・フェリックス・レナートゥス・ルートヴィヒ・ガエタン・ピウス・イグナティウス・フォン・エスターライヒ
身位大公、皇太子→帝政廃止
敬称殿下→帝政廃止
出生 (1912-11-20) 1912年11月20日
オーストリア=ハンガリー帝国、ライヒェナウ・アン・デア・ラックス
オットー・フォン・ハプスブルク(ドイツ語: Otto von Habsburg, 1912年11月20日 - 2011年7月4日)は、最後のオーストリア皇帝カール1世と皇后ツィタの第一子で、長男。オーストリア皇太子(1918年の帝政廃止によって身分喪失)。ハプスブルク家家長(1922?1961年、あるいは1922?2006年)。
1930年代のオーストリアにおける君主制復活運動を指導し、ナチス・ドイツのオーストリア侵略計画に対抗した。オーストリア併合の最大の障壁とアドルフ・ヒトラーに見なされ、そのオーストリア侵略計画は彼の名から「オットー作戦(ドイツ語版)」と呼ばれた。第二次世界大戦中にはアメリカに亡命してフランクリン・ルーズベルト米大統領やウィンストン・チャーチル英首相と接触し、弟らとともにオーストリア解放に尽力した。
ドイツ、オーストリア、ハンガリー、クロアチアの市民権を持ち、欧州議会議員や国際汎ヨーロッパ連合会長を務めるなど、汎ヨーロッパ主義的に活動した政治家でもある。第二次世界大戦中には「ドナウ連邦」樹立を、戦後は欧州統合を提唱した。汎ヨーロッパ・ピクニックの中心人物の一人である。
生涯
皇族時代
誕生生誕の地、ヴィラ・ヴァルトホルツ(英語版)(1900年撮影)
1912年11月20日午前2時45分、カール大公とツィタ大公妃の長子として、ライヒェナウ(ドイツ語版)のヴィラ・ヴァルトホルツ(英語版)で誕生した[1]。体重はおよそ4000グラムだった[1]。生誕時の皇位継承順位は第3位。老齢の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は男児の誕生をことのほか喜んだ。
フランツ・ヨーゼフ1世からみてこの新大公は、亡き弟カール・ルートヴィヒ大公の曾孫というやや遠い血縁であったが、皇帝唯一の男子だったルドルフ皇太子はすでに亡く、皇位継承者に指名した甥のフランツ・フェルディナント大公はゾフィー・ホテクと貴賤結婚しており、その子孫には皇位継承権が認められなかった。よって、フランツ・フェルディナント大公の次には、その弟オットー・フランツ大公(1906年にすでに他界)の長男であるカール大公が皇位を継ぐことが確実視されており、その長男として生まれた新大公も未来のオーストリア皇帝・ハンガリー国王になるだろうと目された。オットー生誕時のオーストリア皇位継承順位(灰色は故人)
オーストリア皇帝
フランツ・ヨーゼフ1世 メキシコ皇帝
マクシミリアン カール・ルートヴィヒ ルートヴィヒ・ヴィクトル
第5位
オーストリア皇太子
ルドルフ フランツ・フェルディナント