ドイツ国の政治家オットー・ディートリヒOtto Dietrich
生年月日1897年8月31日
出生地 ドイツ帝国
プロイセン王国 エッセン
没年月日 (1952-11-22) 1952年11月22日(55歳没)
死没地 西ドイツ
ノルトライン=ヴェストファーレン州 デュッセルドルフ
前職軍人(予備役陸軍少尉)
所属政党 国家社会主義ドイツ労働者党
称号金枠党員章、親衛隊大将
国民啓蒙・宣伝省
次官及び第IV部(出版)部長
内閣ヒトラー内閣
在任期間1938年1月15日 - 1945年3月30日
総統アドルフ・ヒトラー
政府報道局長
在任期間1938年1月15日 - 1945年3月30日
ドイツ国国会議員
選挙区29区(ライプツィヒ)
当選回数2回
在任期間1936年3月29日 - 1945年5月8日
国家社会主義ドイツ労働者党
全国報道指導者
在任期間1933年6月2日 - 1945年3月30日
党指導者アドルフ・ヒトラー
国家社会主義ドイツ労働者党
全国報道事務局長
在任期間1932年9月12日 - 1945年3月30日
党指導者アドルフ・ヒトラー
その他の職歴
国家報道院
オットー・ディートリヒ
Otto Dietrich
所属組織 ドイツ帝国陸軍
親衛隊
軍歴1914年 - 1919年
1932年 - 1945年
最終階級 陸軍予備役少尉
親衛隊大将
除隊後政治家
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オットー・ディートリヒ(Otto Dietrich、1897年8月31日 - 1952年11月22日)は、ドイツの編集者、政治家。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の幹部で、同党の全国報道指導者、国民啓蒙・宣伝省の次官及び政府報道局長を務めた。陸軍の最終階級は予備役少尉。親衛隊での最終階級は親衛隊大将。 1897年、プロイセン王国エッセンで商人の息子として生まれる。グラマースクールに通い、第一次世界大戦が始まるとドイツ陸軍に志願兵として入隊し、西部戦線に従軍した。予備役少尉まで昇進し、一級鉄十字章・二級鉄十字章を受章している。 大戦後にはミュンヘン、フランクフルト・アム・マイン、フライブルクの大学で学び、1921年に政治経済学博士号を取得した。大学卒業後の1922年にエッセン商工会議所で調査アシスタントとして働き、1926年にエッセン・アルゲマイネ・ツァイトゥングで編集員となり、1928年にミュンヘン支社でビジネスと貿易の記事の副編集員となる。また、ライン地方の鉄製品シンジケートの代理人や法律アドバイザーも務めた。 1929年4月1日にナチ党に入党した(党員番号126,727)。入党後すぐにエッセンに戻り、新たに刊行されたナショナル・ツァイトゥング
来歴
生い立ち
ナチ党幹部1940年、ヒトラーのパリ視察に同行するディートリヒ(右から2人目)
ナチ党のプロパガンダ報道に非凡な才能を発揮した。1934年、アドルフ・ヒトラーがエルンスト・レーム以下の突撃隊幹部を粛清した長いナイフの夜の際には「総統は総統を殺害しようとした党員たちのモラルの低下にショックを受けられた」と報道した[3]。ルドルフ・ヘスが単独飛行した際には「敵領での事故死」と報道している[3]。東部戦線で赤軍に押し返され始めても「ソ連は崩壊した」と報道し続けた[3]。
ディートリヒの職務は、宣伝大臣のヨーゼフ・ゲッベルスや党出版全国指導者のマックス・アマンと被る部分が多く、摩擦もしばしばあったという。