オットー・スコルツェニー
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オットー・スコルツェニー
Otto Skorzeny
少佐時代の撮影。騎士鉄十字章を佩用している(1943年)
渾名ヨーロッパで最も危険な男
生誕1908年6月12日
オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン
死没 (1975-07-06) 1975年7月6日(67歳没)
スペイン マドリード
所属組織 武装親衛隊
軍歴1931年 - 1945年
最終階級親衛隊中佐
指揮SSフリーデンタール駆逐戦隊
(SS-Jagdverband Friedenthal)
戦闘第二次世界大戦
*独ソ戦
*グラン・サッソ襲撃
*バルジの戦い
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オットー・ヨハン・アントン・スコルツェニー(Otto Johann Anton Skorzeny、1908年6月12日 - 1975年7月6日)は、ドイツ軍人武装親衛隊隊員。最終階級は親衛隊中佐

コマンド部隊の指揮官として様々な奇襲・極秘作戦に従事したことから、「ヨーロッパで最も危険な男」と呼ばれた[1]
生涯
生い立ち

ウィーンの中産階級の家庭に生まれた。身長192cm、体重90kgの偉丈夫でウィーン工科大学在学時にはフェンシング選手としてウィーンで名が知られ、15回の個人的な決闘学生決闘(メンズーア))を行い、10回目で頬に大きな傷を残した[2]

1931年オーストリア・ナチ党に加わり、すぐに突撃隊に入隊した。当初から指導者としての適性を示し、1938年3月12日のドイツのオーストリア合邦の際には、併合協定調印を拒んだヴィルヘルム・ミクラス大統領ナチスの暴漢から守った。
第二次世界大戦
初戦

1939年第二次世界大戦が始まると土木技師をしていたスコルツェニーは空軍に志願したが、30歳を越えていたため入隊できなかった。替わって親衛隊特務部隊に入隊、1940年2月21日にLSSAH師団の一員として実戦に参加する。

東部戦線においてスコルツェニーは技術将校を務め、師団の戦車や車両の整備にあたっていたが彼はそれだけの任務に満足していなかった。1941年の冬、ドイツ軍による攻勢が行われた際、スコルツェニーは2人の士官と連れだって前線から約200m離れた待避壕で話をしている最中、赤軍によるカチューシャロケットの攻撃にあい後頭部を負傷する。いつもならばシュナップスと何錠かのアスピリンを飲んで凌いでいたスコルツェニーであったが、痛みがその後も続いたので、治療のために負傷兵として本国に帰還することになった。1941年12月、体力の衰えたスコルツェニーはウィーンに移送され、1942年の初頭からは、ベルリンのLSSAH師団の補給所で技術関係の勤務につくことになる。因みに、この頃には既に一級鉄十字章を受けていた[3]
特殊部隊へスコルツェニー(1943年)

数ヶ月して、スコルツェニーは親衛隊作戦本部に出頭するよう報告を受け「技術的訓練を受けた将校」で「特殊任務を達成できる」人材が必要であると司令部から説明された。スコルツェニーはじっと聞き耳をたて、補給所での退屈な任務から抜け出る機会だろうとみていた。司令部は、ドイツにもイギリスのようなコマンド部隊を設置する時が来たと説明しスコルツェニーはすすんでこれを受け入れ、1943年4月18日に予備役大尉へ昇進し『フリーデンタール特殊任務特別教育課程(ドイツ語:Sonderlehrgang zbV Friedenthal)』の隊長に就任する。部隊はベルリン近郊の「フリーデンタール訓練場」に因んで『SSフリーデンタール駆逐戦隊(ドイツ語:SS-Jagdverband Friedenthal)』とも通称された[4]

1943年の春、スコルツェニーは特殊部隊としての編成にあたったが部隊の兵力は1個中隊ほどであり、与えられた武器もほとんどが敵からの鹵獲品であった。これらは当時の特殊部隊の水準を満たすものではなかった。しかし、ニーチェの「危険を冒して生きよ」という言葉を座右の銘としていたスコルツェニーは、任務を断念する事なく部隊の強化に奔走するようになる[5]SDの幹部でスコルツェニーの事実上の上司であったヴァルター・シェレンベルクはこの新部隊の将来性をヒトラーに良く印象づけようとしており、スコルツェニーは作戦に必要な人材をすぐに集め始めた。まず、手始めに呼んだのは大学以来の旧友であった陸軍大尉のカール・ラドルであった。ラドルはその後の数年間、スコルツェニーの副官として活躍することになる人物であった。兵員は様々な組織から集めSSの空挺大隊が大半を占めたほか、アプヴェーアブランデンブルク大隊からも兵員を獲得した。また、通常の武装親衛隊員から志願した者も何人かいた。最終的に部隊は2個大隊に匹敵する規模に拡大されたが、彼らの国籍はバラバラでヨーロッパの各言語が部隊内で交わされることになり、これらは後の作戦行動で有効にはたらくこととなる[6]

しかし、スコルツェニーはまだ満足せず、部隊の武装が貧弱なままであることを問題視して再び奔走することになる。スコルツェニーはコマンド部隊と対独レジスタンス関連の文書を辞書の助けをうけて読み耽り、英軍の方式を参考にするようになる。その後、スコルツェニーはオランダへ向かいSDなどの諜報機関によって手なずけられた二重スパイを雇って、イギリスからオランダの対独抵抗組織に送られていた武器などの軍事物資を手に入れていった。運び込まれたものはプラスチック爆弾地雷ステン短機関銃、無電装置、消音装置付きの短機関銃などであった[7]。こうして、スコルツェニーの部隊は拡充され、司令部のあるフリーデンタールの狩猟用山荘で訓練が行われた。部隊は急速に強化されていたので志願者が次々に集まったが、特にブランデンブルク大隊からの志願者が多くなっていた[8]
ムッソリーニ救出ハラルト=オットー・モルス、スコルツェニーと救出されたムッソリーニ。グラン・サッソ前(1943年9月12日)

1943年7月25日、休暇中のスコルツェニーは親衛隊作戦本部から連絡をうけ、急遽、総統大本営へ向かうように命令された。飛行場では要人専用の飛行機とラドルが待機しており、機内でラドルとの挨拶を交わした後、軍服に着替えスコルツェニーは総統大本営へ向けて飛び立った[9]。「狼の巣」へ到着した彼は高級将校の集められた部屋へ案内され待機させられ、スコルツェニーを含む6名の将校がヒトラーの個室に招かれることになった。

暫くして、ヒトラーが入ってくると6人は襟を正してヒトラーの副官の一人が全員を紹介していった。ヒトラーは全員をじっと見すえながら「イタリアを知っている者は誰か」と尋ね、スコルツェニーが唯一それにこたえた。ヒトラーは「諸君に尋ねるが、諸君らはイタリア人をどう思うか」と続けると「枢軸の盟友」「防共の味方」といった応答が交わされたが、スコルツェニーは「総統、私はオーストリア人です」としっかりとした口調でこたえた。


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