オットー・シュニーヴィント
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オットー・シュニーヴィント
Otto Schniewind

生誕1887年12月14日
ドイツ帝国
プロイセン王国 ザールルイ
死没 (1964-03-26) 1964年3月26日(76歳没)
西ドイツ
ラインラント=プファルツ州 リンツ・アム・ライン
所属組織 ドイツ帝国海軍
ヴァイマル共和国軍
ドイツ国防軍海軍
軍歴1907年 - 1945年
最終階級海軍上級大将
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フーベルト・マリア・オットー・シュニーヴィント(Hubert Maria Otto Schniewind、1887年12月14日 - 1964年3月26日)は、ドイツ海軍軍人海軍上級大将第二次世界大戦中に海軍参謀長を務めていた。連合国軍PQ17船団に大損害を与えた事で知られる。勲一等瑞宝章受章者。ニュルンベルク継続裁判でのオットー・シュニーヴィント
略歴

フランス国境の街であるザールラント地方ザールルイに生まれる。1907年、ドイツ帝国海軍入営。第一次世界大戦中は海軍大尉として魚雷艇での任務に就く。敗戦後、スカパ・フローでドイツ海軍の艦艇が連合国側に引き渡される際、指揮する魚雷艇群を自沈させ、イギリス軍の捕虜となった。

その後、エアハルト海兵旅団に参加。ヴァイマル共和政時代は参謀としての任務が多く、1925年から1926年にかけてはオットー・ゲスラー国防相の副官を務めた。その後再び魚雷艇群司令官となり、ついで軽巡洋艦ケルン」艦長となった。1934年に大洋艦隊司令部参謀長に任命され、1937年に海軍少将に昇進して海防局長に転じる。1938年10月に海軍参謀長に任命された。

第二次世界大戦中の1940年に海軍中将に昇進、数ヶ月後に海軍大将に昇進した。1941年6月、ドイツの戦艦「ビスマルク」撃沈で戦死したギュンター・リュッチェンスの後を継いで艦隊司令官に就任。1942年6月27日 - 7月24日の間に行われた、対ソビエト連邦向けの輸送船団である「PQ17船団」への攻撃作戦を指揮し、大打撃を与えた。

1943年3月、北部方面の艦隊司令官に就任。1944年3月に上級大将に昇進したが、7月に更迭され以後軍務に就くことは無かった。総統のアドルフ・ヒトラーに対し、隔意を持っていたのが理由とされる。

敗戦直前の1945年4月30日に公式に退役した。

敗戦後、北欧侵攻の際の平和に対する罪戦争犯罪人道に対する罪の容疑でニュルンベルク継続裁判の1つ国防軍最高司令部裁判に起訴されたが、無罪となった。1948年10月に釈放され、翌年から1952年までブレーマーハーフェンアメリカ軍のためのドイツ海軍戦史編纂チーム(Naval Historical Team)の長を務めた。リンツ・アム・ラインで死去。
評価

秀才型の有能な人物だと評価されている。

他方、保守的な面もあった。Z計画では他の提督達と同様に戦艦を中心とした艦隊建造を支持し、ヘルムート・ハイエ中将やヴェルナー・フックス少将による「戦艦では英国には勝てないので、その通商破壊を目的とした潜水艇Uボートを主力とした艦隊を構築すべきだ」との急進的な意見には反対した。
栄典
外国勲章

1942年9月26日 - 勲一等瑞宝章[1]

脚注[脚注の使い方]^ 「独国総統幕僚全権公使「ワルター、ヘーベル」外二十二名叙勲ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10113448500 

関連書籍

佐藤大輔レッドサンブラッククロス(4)」徳間文庫、1995年。

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